2012/01/21

寝起き

最近、ここ一週間程、何故か寝起きが良い。
パッと起きれる程には良くはないが、以前よりは明らかに良くなってる。
グリシン飲んでも大して変わらなかったのに。
これはたまたまなのか、何か生活のちょっとした変化が影響しているのか・・・。

ここ最近で何か影響ありそうな生活上の変化といえば、寝る時に落ち着いた曲でかつ好きな曲でかつ聴きまくって完全に血肉になっているような曲だけを厳選してメモリオーディオに入れて、それを聴くようになった、というのが一つある。
或は、少し前に胃を悪くしたのをキッカケに、もうちょい胃腸を強くしようとEBIOS錠(ビール酵母)と新ビオフェルミンS錠(乳酸菌)を買ってきて咽んでたのだが、胃の治った後も量を減らして咽み続けている、というのもある。

これがたまたまだとすれば次の朝を祈りながら寝るしかないが、何が眠りや寝起きに良い影響を与えるかが判ればそれを続けることで良い状態であり続けられそうだ。
一般論では、こうした方がいいとかこれはしない方がいいとか色々と謂われているし実際一般的視点では例えば実験すればそう言えるだけの統計データが出たりするのかも知れないが、私個人にとって何が有効なのかは一般論とは必ずしも一致しない。
まあつまり或症状に対して処方された薬が多くの人には効くにしても効かない人もいればその薬で副作用が出る人もいるのと同じようなことだ。
自分が効く人なのか副作用の出る人なのか、或程度予測したりすることはできる可能性があるにしても、最終的には咽んでみなければ判らない。

まあそういう感じで、私の眠りにとって何がいい影響をあたえるのかを割り出すことができればいいなあ、という話。
できれば生活スタイルの大幅な転換や出費といったコストの掛からない方法で。
まあもっと規則正しい生活スタイルにすべきだとは思うけどな!


あ、話が飛ぶことでお馴染みの思い付き私的言語メモ。
政府や恐らくは社会も、例えば個人に対して「然々の道徳的信念を持て」「これを信じよ」と強要することは、してはならない。
これは、政府や個人の或政治的振る舞いが或道徳観に基づいて行われているとい話から気を付けて区別されねばならない(・・・この区別の延長線上にアイロニズムが待っている)。
あと或人或は或集団の或ひとつの行為がそれに基づいているところの道徳観について、(なんとなくでなく)哲学的に考えるならば、それが一つの特定の道徳観であるかのように想定することは行き過ぎた単純化である。
個人のアイデンティティは多元的で複雑に絡み合っている部分もあり複雑に散らばっている部分もある。而も常に。
厳密に考えることが求められる場合、或主張や或行為と或アイデンティティを一対一対応させようとする努力は無駄であるか害悪であるかのどちらかだ。
そのような分析は方法として間違っている。
私は例えば純粋に日本人として或行為を遂行するようなことはできない(「純粋に」は「日本人として」に係っている)。