2007/06/30

収容限界

本やらCDやらを買う。
今までずっと危ない危ないと言われてきたことなのだが、今日でとうとうCDの収容能力の限界を突破してしまった。
これからどこに仕舞おうか・・・。

まあ書籍の収容能力の方は、とっくに限界突破して了っているのだけれど。
部屋の色々なところに書籍の類が山と積まれている。
こう書くと私がよく勉強してるかのように聞こえるが、実際にはその多くが漫画である。

序でに遂にSONAR 5から6に移行する算段を執る。
SONAR 6は5に比べてそれ程魅力的という訳ではないのだが。
ちゃんと毎年アップグレードすることは何か義務感を伴っている。


本日のドツボ。
PHPで、ヒアドキュメントの終了宣言句を置く行で、終了宣言句の前にタブやスペースが入っていると、それを終了宣言句として認識して呉れない。
それに気付かず数時間を無駄にする。
ドボン。
if構文内にヒアドキュメントを移動させてインデントを揃えたときとか注意。

2007/06/29

脱皮

特に。

腕に色素が定着した。
久しぶりに黒くなったので、なんか違う人の腕であるかのようだ。
見慣れない。
早速皮がめくれ始めている。
なんか見た目が汚いので辟易している。

2007/06/28

対応説、実在論、クオリア

私的備忘録。
説明無しを宣言しておく。

言語の対応説を捨てれば実在論を捨てることはグッと楽になる。
対応説と実在論を捨てれば、例えばクオリアについての問題は瞬時に解消される。
クオリアと科学との違いについての問題を、その状況ではどういう言葉を使用するのが便利なのか、という問題にすり替えるだけでいい。
��デネットは微妙に実在論者だったので、クオリア/科学の問題を捨てるのにまどろっこしい説明をしなければならなかったんじゃないだろうか、と、ふと思う。)
或は「人間がお互いに本当の意味で解り合うことはないのだ」というような主張を全く無意味な主張とすることができる。
「本当に」解り合うべき何ものかが言語以前に我々の中に実在し、我々がお互いにお互いを「本当に」解り合うということは、その何ものかに対応する言葉でそれを表現するということだが、それはクオリア的なもの或は純主観的なものなので、科学っぽく客観的な仕方でそれを検証したり確認したりすることは不可能だ、というような考えを否定するのが非常に簡単になる。

・・・後略。
眠い。

ポイントは、対応説と実在論をちゃんと残さず捨て去る、というところである、ということを、私は忘れがちである。
というようなことを風呂の中で思ったという話。

2007/06/27

写真

おー。
やっと帰って来れた。
ギターやらパソコンやらの入った荷物が死ぬ程重かった。

また陽に照らされた部分が日光皮膚炎な感じに。
痒い。
太陽は敵だ。

昨日撮った写真をチェックしていて、開けた感じを写真に納めるのは非常に難しいということが解った。
開放感のあるところで撮った筈のものが、どこか狭苦しさを感じさせる写真となってモニタ上に現れている。
それから、二つの目で見る遠近感を写真上に再現するのも非常に難しい。
例えば格好いい感じで縦に並んでいる祠を撮ったものが、イマイチパッとしない感じになっていた。
やっぱ写真は私のようなズブの素人には難しい。
恐らく目で見ている風景を写真に納めようという考えが間違っているのだろう。
多分、写真家は、最終的に出来上がった写真の平面上の絵をちゃんとイメージできていて、二つの目で見て美しく感じる風景ではなく、写真になったときに美しい写真となるような風景として風景を観たり探したりすることができる目を持っているのだろう。
私風情では、結構沢山撮って、結局一枚ぐらいしか好いのがなかった。

2007/06/25

明朗闊達

明日、帰れると思います。
二週間は長かった。


法律はみんなの為に制定されているものなので法律には絶対に従わなければならないとは思いませんか、と訊かれて、まあ多くの場合は法律は守るべきだが倫理に反する法律は変えるように働きかけるべきだし場合によっては法律に従うことが倫理に反することもあるだろうしそういうときはその法律には従うべきではない、と思って、そいつぁどちらとも言えませんね、と答えると、あなたは順法精神に欠ける駄目な奴です、と言われる、というような、どっかの頭の良い(勿論皮肉です)センセイの作った民主主義や議会制ガン無視の心理テストが、この世には未だ存在するのだなあ。
而もそれなりの権威を持っているらしい。
悲しいことだ。
小学生なら純粋な気持ちで「はい」と答えることができただろう。
勿論「過去に死にたいと思ったことがありますか」とかいう質問には「そんなわけないじゃん」と答えたさ!
わたしはたんじゅんでめいろうかったつだからネ。
君の求める「普通の人」像にぴったり適合するだろう?


時間があったので、写真でも撮りに辺りをぶらつく。
この辺は神社が多いようなので、神社の建築物の組木の具合でも撮ろうかと。
或は地衣類やら苔やらの具合とか。
で、三時間程自転車でタラタラやっていると、また腕や顔が真っ赤に焼ける。
腕時計と腕輪の跡を確っかりと残して。


まあそんな感じで。

2007/06/24

ネオヴェネッツィア

一日中、心身を分離する。
身体は自動で話し、笑い、眠るが、頭では他のことを考えて過ごす。
「あの曲はその次どうもっていくべきだろうか」とか、「ネオヴェネッツィアの世界観は、理想を語るという面から見れば、非常に素朴だが、魅力的で説得力がある」みたいなことをぼんやりと。
従って、本日私が何をしたのか、どのように振舞ったのか、記憶に無い。
というわけで、本日もまた特筆すべきこと無し。

2007/06/23

血小板

特に。
またもや。

もう直ぐ、跡数日で、ここから脱出できる。
おうちへかえろう。

素敵な物語を血中に補充しなければならない。
私の血は乾き、心臓が凍えて固まってしまいそうだ。

2007/06/22

余暇

またもや特筆すべきこと無し。

もう少し山の中で、そしてもう少し暇があれば、一寸は逗留気分を味わえただろうに。
余暇が必要だ。

2007/06/21

コギトエルゴスム

独りでゆっくり考えをまとめるぐらいの時間も無い日が続くと、人は、考えなくなるものだ。
特に私は脳味噌の具合が悪いので、考えをまとめるのに人より時間がかかり、従って少し時間が足りない日が続くだけで、考える習慣が無くなってしまう。
私の死滅しつつある脳細胞にトドメが差される。
何も考えられなくなってしまう。
ルネさん曰く、「我思う、故に我在り」と。
私の「私」が消滅してしまう不安。

2007/06/20

ラクトフェリン

またもや特筆すべきこと無し。

焼けた腕がやっと黒くなった。
発疹も収まり。
時計の跡が確っかり残っている。

山から降る瘴気に中てられた上に、いろいろな栄養素(肉体的な、或は精神的な)が不足して、神経が不安定になりつつある。
素敵くない。
取り敢えず、ひとつ、牛乳でも飲んどこうか知ら。

2007/06/19

すまばみやこ

特筆すべきこと無し。
忙しなく一日を過ごす。
暇だと逆に疲れる、と言う人がいるが、私は暇なら暇な程好い。
十分な金があるのなら、私は何もせず只ぼんやりと日々を過ごしていたい。

もう一週間程、この岡山で、アクセク過ごさなければならない。
私は早く大阪に帰ってゆっくり過ごしたい。
ギターを弾いたり曲についてあれこれ考えたりゆっくり本など読めない程時間が無いのは、結構辛い。

私は以前東京に行ったときには、ここに住んでも悪くないと思ったが、どうも岡山の山に囲まれたキレイな空気は肺に馴染まない。
ナウシカか!

2007/06/18

鍛錬

大阪は車のマナーが悪いとされるが、歩行者の立場から見る限り、岡山の方がよっぽど悪いように見える。
人が居ようと居まいと、ちょっとした曲がり角ぐらいでは方向指示器の出し惜しみをするように見えるし、道を横断している歩行者ガン無視で突っ込んでくるし。
轢かれんぞ!
ごみごみした大阪ではその辺気を付けていないとえらい目に遭うので、鍛えられるのだろうと思う。

2007/06/17

発疹、太陽、水の泡

陽に焼けた腕に発疹が。
太陽の奴め。
やっぱあいつは私の敵だ。

Sonarで作業をしていたら、あの忌々しい青幕が。
今日の分の作業の半分ぐらいが水の泡。
ノートでも出るか・・・。
どうもFireWire410のドライバ辺りが悪いっぽい。
USBのか何かに替えてみるかなあ。
然しそんな金は無いしなあ。
なんかSonarとの相性とかあるのかねえ。
もう。
安定せんなあ。
この不安定さの所為で、今までどれだけの時間と労力と気力が無駄になってきただろう。

2007/06/16

夏至

コンビニを求めて自転車で駆け回っていたら、陽に焼かれた。
自転車なんて久しぶりに乗った。
多分2~3年はまともに乗ってなかったんじゃないだろうか。

焼かれた腕が真っ赤だ。
腕時計の形がくっきりと出ている。
顔は、以前から幾らか日に当たってはいたので、腕よりは焼け具合が落ち着いているが、腕の方は、吃驚する程赤い。
ここしばらく長袖だったのでメラニンが皆無なところに強い日光を浴びたものだから、ダメージがでかいのだろう。
夏至も近いから、太陽光的には、一年でこの時期が一番強烈なのだろう。
この赤いのは、血液が集まっているということだろうか。
私は今や夜の生活者なので、日光に中てられると体調を壊す傾向にあるのが心配なところ。

2007/06/15

音楽制作ノートPC

やっとSonarを少し触ることができるだけの時間を取ることができた。
まああんまり大したことはできなかったのだが。
こっちへ持ってきた装備(ノートPC、ギター、FireWireオーディオインターフェイス)だけでも或程度のことはできる、ということが判った。
まあ流石に万全とはいかないが。
キーボードとアンプシミュとエフェクター類が欲しいところ。


どこででもそれなりに音楽制作ができる、というのは、有り難い世の中になったものだ。
B5ぐらいの軽いモバイルノートPCと小型のオーディオIFがあれば、もっと楽になるだろう。
因みに私のノートPCは4kgぐらいいあるし、M-AUDIOのFireWire410も結構かさばる。

最近はノート用のメモリも安いからねえ。
手の届く範囲で、1Gとか2G乗せることができるぐらいになってきた。
然しメモリを二枚共交換できるものがあんまり無いように思える。

2007/06/14

嗤う

特に何事も無く。

嗤う伊右衛門を読んで、さっさと岡山から帰りたくなる。
切ねぇ。
私はそれなりに大きな街が性分に合っているのかも知れぬ。
ここはネットが遅いし。
そうか、こう遅いと色々大変だなあ。
やっぱ光はええのう。
それなりに大きな街に住んで光なんかを使っていると忘れがちだが、日本には、こういう遅い回線しか使えないところがまだまだある。

2007/06/13

ストレッチマン

特筆すべきこと無し。

明日から日中一寸は時間が取れそうだけど、ギターは弾けないようだ。
うむむむむ。
ストレッチでもして寝よう。
ほぅら、この辺にストレッチパワーが溜まってきただろう!

早ぅ寝よ。
明日も早いし。

2007/06/12

Safari

MacのデフォルトのブラウザのSafariがWindowsに!(まだベータ版だけど。)
あの日本語サイトがちゃんと表示されないことで有名なSafariが!
Mac使ってる日本人でSafari使ってる人も少ないんじゃないかと思うけど。
MacならFirefoxの方がよっぽどストレス溜まらない。

で、Windowsにも早速インストールしてみた。
若しかしたらWindows版になってその辺が改善されているかも知れない。
が、やっぱり日本語サイトが一発ではちゃんと表示されなかった。
正式版ではその辺改善されるんだろうか。

2007/06/11

岡山

えー。
新幹線のカーブの心地好い遠心力を感じながら。
岡山にやってきました。
これから二週間程こもります。
拠点となる宿泊施設は、設備的にもそこそこ好い所。
ネットが繋がるし。
風呂とトイレが分かれている!
蒲団がロフト!
普通に住めます。
私が学生の時分住んでいたところよりずっといい。

一応PHPが書ける環境とDTM環境を持って来ました。
本もいっぱい持ってきたし。
が、余り時間が無さそう。
因みにギターも持って来ました。
ちょー重かった。
死ぬかと思った。
が、まあ一応、これで曲が創れなくもない。

まあそんな感じで。

芥川龍之介全集

筑摩文庫の芥川全集、間違ってダブってしまっていたようだ。
三巻と四巻。
岡山に行くのに、本を部屋から発掘していたところ、二冊づつ出てきた。
という訳で、欲しい人がいたらあげます。
連絡ください。
まあ渡せるのは、私が岡山から帰って来てからの話になるだろうけれど。

或は何かのプレゼントにしてもいいなあ。

岡山へ

ちょいと二週間程岡山辺りに行って参ります。
ネットも一応は繋がるようなので、メールなどは受け取れると思います。
ブログの更新も恐らくは。

・・・。

書くこと無いので持って行くCDのリストアップなど。
計21枚。

新居昭乃 / RGB
MOGWAI / Mr. Beast
Radiohead / KID A
Rage ageinst the Machine / Evil Empire
Penderecki / Complete Cello Concertos
Beethoven / Symphony no.9 by Mehta
Opeth / Deliverance
Autechre / Draft 7.30
Faure / Requiem by Corboz
Emilie Simon / Vegetal
Schoenberg / Verklaete Nacht by Mehta
King Crimson / Cirkus (二枚共)
Led Zeppelin / BBC sessions (二枚目)
Hartmann / Funebre
Jeff Buckley / Grace
Bruckner / Symphony no.8 by Inbal
tool / lateralus
Keith jarrett / Always Let Me Go (一枚目)
・Galaktlan / Constance
・ロシアかどっかのロックバンド(読めない)

傾向としては
・クラシック多め
・ジャズ、エレクトロは少なめ
・ケルトとかガムランとかタンゴとかは無し
・ロックは昔からよく聴いているもの
・全体的にかなり堅い選択
といった感じで。

2007/06/10

ToDo

特筆すべきこと無し。

私は持ち前の意志の弱さと忘れっぽさを改善する為に、ToDoリストをメモ用紙に書いておくことがある。
然しながら、私は持ち前の机の上の汚さと忘れっぽさによって、そのメモを紛失したりメモの存在自体の記憶を紛失したりする。
そして時々以前のメモが発掘されるのだが、後から見てみると何のことを書いてあるのかさっぱり解らない。
それはそれで面白い。

2007/06/09

世界、物語、芸術

メンド臭いので飛ばし飛ばし書こう。


人は、少なくとも人間の言語を超越するのでないならば、自らをして自らを超越することなどできない。
それは只の言語上の矛盾に過ぎない。
然し、前の「自ら」と後ろの「自ら」を区別するのであれば、これは可能となるかも知れない。
例えば、前者の「自ら」が何か抽象的な「全体としての自己」を意味し、後者の「自ら」が「自らの自己像」を意味しているとき。

自分のなんとなく無意識に弾いた楽器を延々と録音したのを自ら聴き返して、「そうか、今理解できた、私はこれが言いたかったのか」と気付く、ということはあり得る。

我々は、自分を評価する記述様式を、幾らかは持っている。
その記述様式を以て自らの自己像を造り上げる訳である。
ガキをガキたらしめる特徴は、一つには、この記述様式の貧困に在る。
例えばある形式の服装を好むガキが自らをしてそれ以外の形式の服装をするのなら死んでしまうかのように思えるのは、恐らくはこの貧困の為である。
或は、女は家でという考えを好むガキが女性社員のことを彼女らの女性というだけで低賃金で出世しなくていいと考えるののもの貧困の為だろう。
年齢がどれだけ高かろうと、そういう意味ではガキなのだ。

このセンでいくと、大人になるとは多くの記述様式を自らのものとして獲得する、ということであろう。
多くの物語を知るのだ。
知ることで(二つの「自ら」を区別する種類の意味で)「自らを超克してゆく」のだ。

世界はまだまだ幼稚だ。
物語を語れ。
似非ポストモダン達の言うことに反して、我々のすべきこと、近代にやり残したことは、未だ沢山ある。
一つには、似非ポストモダン達が勝手に「消費物」化した挙句ニーチェの真似をして「我々が殺したのだ」とズレたことを勝手にぬかしているところの、あの、「芸術」だ。


まだあるが、眠い。

2007/06/08

PHP

窓を開けなくては暑過ぎるし、空けると外から出汁の量に対する醤油の分量を間違ったときのような非常に不味そうな和食の臭いがする。

只管PHPのお勉強。
やっぱり私はDB周りが弱い、ということが判った。
或一つの関数を探り当てるのに何時間か無駄にしてしまった。
私にはPHPよりRubyの方がステキな言語のように思える。
まあPEARとかSmartyをまともに使いこなせればこの印象も変わるのかも知れないが。
然しRubyにはJRubyというJavaのステキっぽい実装があるからなあ。
無敵か!
1.0の正式版が出れば試してみよう。

2007/06/07

みだれ髪

髪を切った。
約半年振り。
また結構短くなった。
癖っ毛が、クリンクリン渦巻いている。
最近頬の下辺りが丸味を帯びてきているので、そこが髪で隠れていた昨日より5から10年程若く見える。
否、10年は言い過ぎか。その頃は、ガキだ。
これは、「若造」といった感じがする。
或はもう少しジャリかも知れぬ。
精神年齢の方は、その頃から成長しているとは到底言えないが。

まあ、食でも断って腹でもへこませるか。
年相応に見えるようになるように。

2007/06/06

エンデ

膝が痛い。
成長期か!

やたら時間の経つのが早い。
アレか。
また。
時間泥棒の奴か。

2007/06/05

山積み

ぼんやり何かを考えていたのだが、忘れてしまった。
まあろくなこと考えてはいなかったろうが。

机の上にCDが積み重なっている。
結構危険な体勢で。
震度2ぐらいでアウトか。
でも片づけないんだよなあ。
スピーカーがその後ろに完全に隠れてしまっているのに。
ダメなヤツだなあ、私。

今数えてみたところ、31枚あった。
一枚60分として考えても、丸一日使っても聴き切らない。
而も二枚組も混じってるからなあ。
なんでこんなに積まれているのだ?
いつこれだけ聴いたのだ?

私は一日中CDを流している訳ではなく、結構腰を据えて確っかり聴くのでなければCDを聴くことはあまりないのだが、何故いつも数日の内に私の机の上にこんなにCDが溜まるのか不思議だ。
いつ聴いたのだ?
聴いた記憶はあるのだけれど、聴くことができた時間を考えると、計算が合わない気がする。

2007/06/04

甘い

特に何事も無し。
ストラトでJeff Beckをキメてばかり居る。
何故か体がつま先まで冷え切っている。


近頃はエルガー的なポップなクラシックを聴く。
以前は、こんな甘ったるいの聴いてられるか、と思っていたようなものが、ここ数日は、何故か余り気にならなくなっている。
まあエルガーは、イギリスっぽくて、以前から或程度好きだったんだけど。
イギリスっぽいのは好いのか。
イギリスのはなんかクリアで乾燥していて素朴な音楽が多い気がする。
詰め込みすぎないというか。
ストレートというか。
視覚的というか。
ポップなのだ。
ホルストはあんまり好きではないなあ。
逆に19世紀パリ的な甘ったるさは嫌。
ショパンとか、ダメなときのリストとか。
然しここ数日は、ねっとりしたショパンも聴かないでもない。

2007/06/03

多元論

またもや説明一切抜きです。
まあ、備忘録。


心は脳にのみ宿るとか、「心」という語が本当は脳或は脳の状態についての語なのだ、という考えは捨て去るべきである。
そんな風に考えるから唯脳論とかクオリアについての奇妙な議論とかがでてくるのだろう。
私の手にナイフが刺さり、私は手が痛くなって、「痛い」という言葉を以て発話し、それを聞いた人が「オーメンは痛がっているのだ」と理解したとしよう。
この人が理解したのは私の何を理解したのだろうか。
私の手に突き刺さったナイフ?ナイフの突き刺さった手?手から脳への神経細胞と脳細胞の状態?「痛い」という言葉の意味とか使用のされ方とか?或はその全部?或は・・・。
この人は私が痛がっているということを理解したのだ。

或は大人数の宴会の席で、食事も一通り終わって皆ビールでも呑みながら楽しくやっている頃、私は尿意を感じ、席を立つときに、飲み干したビールのコップに例えば箸を差して席を立ったとしよう。
周りの人間は、コップに箸の差さっているのを見て、「オーメンはもうビールはいいのだな。」とか「オーメンは箸の入ったコップに酒が注がれることがないだろうと考えているのだな。」といったようなことを殆ど無意識に理解することができるので、私が席を立っている間に気を利かさせてコップにビールを注いだりはしないだろう。
周りの人は、私の心を理解した。
では、このとき、周りの人は、私の脳の状態を理解したのだろうか、或は私のクオリア的な何かを理解したのであろうか、私の感じたクオリアと同じようなクオリアを感じたのであろうか、或は箸の入ったコップを理解したのであろうか、或は・・・。
このとき私の心は私の脳内にあるのだろうか、コップにあるのだろうか、私の一連の振る舞いにあるのだろうか、或は周りの人の脳内にあるのだろうか。
これらのどれか一つのみが正しくて他のものは全て間違っているという考えを捨てるべきである。

2007/06/02

蜘蛛、疲労、苦笑

疲れが溜まっている。
よくないことだ。


そこそこ大きな、庭付きの日本家屋の、角の部屋で、私は布団を敷いて寝ることにする。
私は私の立場上、その位置に布団を敷かなければならないようだ。
襖は開いていて、外の庭が部屋から漏れる明かりで微かに見えている。
布団に入ろうとすると、蜘蛛が居る。
或は蜘蛛ではないかも知れない。コオロギのようにも見えるしゴキブリのようにも見える。
何匹も居る。
低い天井から私の蒲団まで、蜘蛛の巣が張っている。
私はそこで眠らなければならない。
私は蜘蛛の巣を避けて足を曲げて横になるも、どうにもその蜘蛛が気になって眠ることができない。
私は非常に疲れていて、一刻も早く睡眠を摂る必要があるのだが。
私は仕方なく立ったまま、部屋の明かりを消して、月明かりに部屋を見渡し、自らの境遇に苦笑がこぼれ、引きつった顔面の筋肉を感じながら目を閉じる。
或は私は立ったまま眠ろうとしたのかも知れない。
然し一方で私はこれから蓄積される疲労が明日の私の行動と精神を著しく制限するのを覚悟している。

というような夢を見る。
実際に疲れは抜けず。

2007/06/01

返答

昨日の記事に頂いたコメントに対する返事がやたらと長くなってしまって、コメントの制限文字数を大幅にオーバーしているらしいので、本文の方へもってきました。
以下それを記す。


・しき@何故何故小僧への返答

いやあ、全然説明する気無くて、思い付きを忘れないように書いただけなのです。
書いたときにはツチノコを使うところが斬新かと思ったのだけれど、今見返してみると、全然イケてないことが判明した。

という訳で、少々解説してみましょう。
意外と長くなったので、或は読み飛ばして頂いて結構。

ポイントは日常会話的なのと哲学チックなのを区別しているところ。
それと私の言ってるところの「反実在論」では日常会話的な実在はアリだが哲学チックな実在はナシ、というところ。

例えば、私は今金平糖をポリポリ喰ってると私は今の自分の状態を認識していて、実際そうしている訳だが、若しかしたらマインスイーパーやりながら氷砂糖を喰ったのを「私は今金平糖を喰っている」と誤って認識しているだけかも知れないし、マッド科学者が私の脳に悪戯したのかも知れない訳だ。若しそうだとしたら、私が今「私が今喰っている金平糖は私の口の中に実在する。」と言ったら間違いな訳だ。或は逆に、実際にそれが金平糖だったときには、私は正しいことを言っている訳だ。なんなら誰か呼んで確かめて貰ってもいい。兎も角このとき金平糖は実在する。
或はもっと色々な人を呼んで確かめてみた結果、私と私が最初に呼んだ人が二人共間違っていたということがあとになって判るかも知れない。そのときにはやっぱり実在してなかったということになるのだが、そのときはそのときだ。私の認識は大抵正常だし、言葉も一応は理解しているので、今の時点で私が間違っていて実際には金平糖は実在しないということは殆ど考えられない。
この金平糖は実在している。
こういうときの「実在」という言葉の使い方を「日常会話的実在」と呼ぼう。
このとき、実在しているか実在していないかは兎も角人間に拠って検証可能でなければならない。さもなくば無意味だ。

で、私が金平糖をポリポリやっているのを目の前にして、それが金平糖であることを自分でも喰ってみて確かめたにも拘わらず、尚「本当にこの金平糖は実在しているのだろうか。本当に?本当に?」と問い続けるとき、その人が意味しているところの「実在」を「哲学チックな実在」と呼ぼう。
では、こういう風に哲学チックに「本当に実在しているのだろうか」と問うことでこの人は何をしようとしているのだろうか。
若しそれが只日常会話的に実在している(つまり錯覚でもないし語の意味を取り違えている訳でもないし、何か宇宙人とCIAの陰謀でもない)だけでなく哲学チックに「実在」している或はしていないとすれば、それで何が言えるのだろうか。
それって人の生活とか倫理学とか政治とかに関係あること?それって神通力みたいなのが無い私にも判るの?若しどうやっても判らないものなら、それって何か意味あんの?
という話。

で、この反実在論の話を誤解した人が、次のように言いたくなるかも知れない。
「反実在論とか言って、実在なんて無いなら占星術の説明と物理学の説明が対立しているときにどちらの説明を採るべきか区別することができなんじゃないの?」と。(この問いは「物理的実在論」といって、物理的なもののみが実在しているのだ、という考えから来ているっぽいが、物理的実在論についての話は、話すと長くなるからまた今度。因みに私は物理的実在論には否定的態度を採っている。)
つまり日常会話的実在と哲学チックな実在との区別を忘れてしまうと、「反実在論」というとどちらの実在も否定しているように聞こえてしまう訳だ。
或は
「占星術的存在者など実在しないけれど痛みとかは実在している、と考えよう。殴られれば痛いでしょう?痛みが無ければ色々と拙いことになるし。痛みは我々の生活とか倫理とか政治とかに非常に重要な意味を持っている訳だ。痛みなんかは実在していると言って差し支えなかろう(まあここまではヨシとしよう。これは「プラグマチックな実在論」と呼ばれる。それが実在しているということは、「それが実在している」という言葉やら文やらの使用が何かの役に立つ、ということを意味する、みたいな感じ。ここまでは私も賛成だ)。然し(と、ここからが問題なのだが)実在なんて無いのなら、占星術の説明と一般的に謂われている心についての説明(痛い、とか)の違いなんて無くなるんじゃないのか?どっちがリアルか判らんようになるんじゃないのか。」と。
が、そいつぁ、「実在」の日常会話的と哲学チックとを区別することを学べば心についての説明と占星術の説明との違いが判るよね、という話です。
哲学チックな実在は兎も角、痛みとかの心は日常会話的に実在している(リアルである)が、占星術的存在者みたいなものは日常会話的にも実在していない(リアルでない)。
ほら、哲学チックな実在無しでいけてんじゃん。

で、「心は実在するのか」というときは、哲学チックな実在について訊いてると解釈するのが妥当っぽいので、問いとして不適切、という訳です。
「心は実在するのか」は日常会話的実在について訊いているのではない、と解釈できるのは何故なら、若しこの人が、心が日常会話的に実在してるのかどうか本当に判らなくて訊いているのなら、我々はこの人に対して「心が(日常会話的に)実在しないなら、じゃあキミは、心など実在しないにも拘わらず一体何をしているのだ?或は心など実在しないにも拘わらず何に問いかけているのだ?」と問い返すだけでいいし、まあ実際そんな解り切ったことを訊く人はいないだろう、と考えられるので。
どのみち不適切な問いな訳です。

今回は「実在」を二種類に分けて考えたけど、実際にはもっと色々な分け方が可能だろうと思われる。
「一寸実在しいる」とか「或意味実在している」なんて言い回しが可能となる感じで。

ごめん、能う上手いこと説明し切らん。
解り難いのは私の説明の所為。
あとはにわ氏か闇住人にでも訊いて呉れ。
上のような内容+αを死ぬ程要約すると、昨日の記事のようになる訳です。


で、「幽霊が怖いのは実在すると思っているから?」という話。
幽霊が怖いのは色々な要因が考えられそう。
そして恐らくは色々な要因が色々絡み合ってるのだろう。
片方で「お化けなんてないさ」と言いながらもう片方で「だけど一寸僕だって怖いな」というように、「お化けなんていないんだ」と強く信じていても、実際に夜の墓場が怖いってことはあり得る。
私だって夜の墓場にでも行けば多少は特別な気分になるだろう。
で、その要因の一つには、実際に少しぐらい「幽霊も実在しているかもなあ」と思っている節があるからかも知れない。Wikipediaの悪魔の証明も参照のこと。
或は、人間は「誰かに脅されている」という状況に置かれると「ここは驚いとかな」と無意識に思ってしまうようになっている(先天的に或は後天的に或はその両方)、ということも考えられる。『エルム街』観てて未だ悪夢も始まってないのに手が汗ばむような状況を想像して呉れ給え。未だ怖いシーンは一度も登場していないのにも拘わらず、「怖いと謂う『エルム街』を観るているのだ」というだけで手に汗握るということはあり得る。若しかしたら、『エルム街』をコメディとして教えられれば、フレディーを見ても笑えるかも知れない。私はコメディとしてしか観れない躰に成って了っているので、笑ってしまう訳です。
こういう場合には、幽霊が実在していようがいまいがどうでもいい訳だ。このとき重要なのは、その状況が何を意味しているのか、或は何を意図されているのか、ということだ。
或は、「幽霊」というのは人を怖がらせる装置として未だ機能しているのだ、というような京極堂的な説明もできよう。あんま説明になってない気もするけれど。若し幽霊が人を和ませる言語的装置として機能しているなら、我々は皿屋敷で和む訳だ。「一枚足りぬ」で萌へぇっ、となるかも知れない。

とか、まあそんな感じで。


イデア論とか独我論が何がイカンのかは、そろそろ疲れたのでまあにわ氏にでも訊いてください。少なくとも私のよりよっぽど的確な答えが返ってくるでしょう。
或は日を改めて。



という感じで、今日の日記に代えさせて頂きます。