2015/03/31

分類学

昔の人は、例えば鯨を魚の一種だと思っていたとしよう。
タツノオトシゴは海産物ではあっても魚とは呼ばなかったかも知れない。
その話を聞いて現代の分類学に慣れ親しんでいる現代人は、昔の人間は馬鹿だったんだなと思うかも知れないが、よく想像力を働かせるなら、昔には現代のような生物の分類学は存在せず、水中を泳ぐもので或一定の類似した形状を持つものを「魚」と呼んでおり、そして昔の人にはそれがまさに魚であったのだ、というふうに想像することができる。
もしかしたら鯨を「魚」と呼んでいた時代の人の中にも例えば鯨の骨格について鰯のよりも猪のものとの類似性に注目していた人もいるかも知れないし、鯨を「魚」と呼ぶことに不便や違和感を感じていた人もいるかも知れないけれども。
或は現代人の多くが分類学に精通しているとは言い難いが、然し(多分)多くの人が鯨は魚ではないと思っているということは分類学の存在することがかなり大きな要因となっているように思える。知らんけど。まあそうだったとして。

昔の人も現代人も「魚」という同じ単語を使用してはいるが、幾らか違った仕方で使用している訳だ。
「魚」という語の使用が時代によって移り変わっている、という、お馴染みの話ですな。

古代ギリシャの「アレテー」という語は現代日本語で「徳」と訳されるのであるが、そこには日本語で言う徳の意味に加えて同じ語で「見た目が美しい」だの「金持ちである」だのということも意味してたらしい。
こういったことを、「魚」の変遷と同じような事柄として捉えてみたい。
サピアウォーフの概念枠仮説を言語版として復活させてもっとユルくしたヤツ、みたいな感じがいい。
クーン的パラダイムのもう少し日常生活に寄ってる版みたいなヤツ。
つまり全体論的編み物の内の或程度デカい部分(例えば分類学の有る無しぐらいのこと)が時代や社会によって異なっているときに、それをお手軽にスッキリ説明してくれるヤツ。
カント的カテゴリーってのも違う感じがするしなあ。
翻訳の不確定性原理としてしまうのも面白くない。
ううむ。
手立ては色々あるんだけれど、丁度良い規模の事柄を説明する丁度良いお手軽さのものが思い付かない。

で。
まあなんかそういうのと同じような仕方で「善」の歴史を説明したり、神経生理学的心理学と民間心理学とをうまいこと橋渡ししたりするのが楽にならんかなあと。
或は人の「死」を、単純に生物学的死だけでなく、色々考えなければならないものがくっついてくる、もう少し深みのある「人間の死」とか「物語的死」として扱うことが、それなりに理路整然とした仕方で、そして哲学の議論に慣れ親しんでいない人にももう少し簡単な仕方でいかれへんかなあと。

ということを風呂の中で思い付く。

2015/03/26

ひのきのぼうからこんぼうへ

ここ数ヶ月の私の電子回路に関する理解の深まりについては、目覚ましいものがある。
つまり今までナンも解ってなかったってことですな。
それが少しだけ理解が進んだということですな。
100が101に増えると1.01倍になるけど、1が2に増えると増加量は同じでも倍率で見ると2倍になるので宛もすげーかのように感じられる、の法則。
私はやっと2になったところで、倍率で見ると2倍になったので目覚ましいように自分では感じられるのだが、未だスライムに3ターンぐらい掛かるレベル。やくそう必携。

とうことで、今まで作ってきたエフェクターとか作り直したくなってきた。
Know Howだったところの幾つかはKnow Whatで「こうすべき」ということが導き出せるようになったし、イマイチよく分からずに手探っていたところももう少し理屈に基づいて考えることができるようになった。
筈。
自作パワーサプライももう少しパターンの取り回しとかでクオリティを上げられる余地がある。

一寸色々やってみたくなってきた。

2015/03/16

Le Creusetのティーポット

只管ベース弾いてBlue Diamond AlmondsのHoney Roasted一缶食い切るだけの一日。
右手の指の皮が一寸前までカチカチだったのが、逆に柔らかくなってきた。
これでギターを弾いてもピックを落とさない。

あとアーモンド一缶はやり過ぎた気がする。
アレな、最後に残る粉が美味いんで、それが舐めたくて最後までいってしまう。

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今年初めぐらいにLe Creusetのティーポットを買ったんだけど、こいつが結構良い。
蓋の小さいタイプのヤツ。
Le Creusetはなんかあんま好きじゃなかったんだけど、このティーポットに関しては買って正解だった。
紅茶が一寸だけ美味くなった。

前までは400-500mlくらいのを使ってきたのだけれど、これは700mlぐらいでいつものよりデカい。
一回に飲むお茶の量は変わらないので、前まではポットに8-9割くらいお湯を入れてた感じだけど、これは6割ぐらいの感じ。

あと今まで使ってきた磁器のポットより茶渋が付き難い。
肉厚で保温性はよさげ。
注ぎ口の根本に要らん茶漉しが付いてないので茶を最後の一滴まで注ぎ切ることができる。
という感じ。

ティーポットで紅茶の味が大幅に変わることは無いが、然し今までで一番変化があったように思える。
今まで磁器だったのがストーンウェアになったってとこで何か違いが生まれたのか。
或は他の何かの影響なのか。
まあどのみち僅かな変化ではあるのだけれど。

2015/03/15

世界が存在しないことを証明できないだって?なんてこった!

独我論というものは、それ自体を真面目に相手にする必要があるかということは取り敢えずは兎も角とするとして、まあ色々なバリエーションが考え得る。
他者全てが哲学的ゾンビ仮説だとか桶の中の脳仮説もそのバリエーションの中に数えていいだろう。
その色々ある独我論の共通のポイントの一つは、
・自分は存在しているが、それと同じ「存在」の意味で他者(或は世界とか)が存在することが確かではない
という点が挙げられる。
取り敢えずは自分は存在している訳ですな。コギトエルゴスまない訳ではないのですな。
このとき、「他者が存在する」と言い切ることができない、といことと同時に、同じレベルで「他者が存在しない」と言い切ることもできない、ということも含んでいることは忘れがち。
つまり独我論というものは、他者の存在とか日常的な存在論に対して疑問を投げかけるものではあるが、それらを直接的に否定するものではないんだよな。
例えば「独我論は利己主義や享楽主義を許容する」みたいなことは言えない。
独我論は他者の存在を前提としている倫理学に対する攻撃にはならない。
他者が存在しないということを認めている訳ではないのだからして。
存在しないかも知れないし、存在するかも知れないのだからして。

まあ独我論のこういう性質のお陰で、独我論を真っ向勝負で否定できないとしても特に問題が無いのだろう。
例えば存在論の話の導入としては使えるのだけれど、そこから更に足を伸ばして独我論自体を倫理学上の問題として捉えたりしようとすると一寸厳しい。

「独我論」という字面から受ける印象から比べると、独我論ってのは割と無害なものだ。
毒にも薬にもならない。

というようなことを風呂の中で思う。
まあ私は哲学的ゾンビですけど。いやマジで。

イヤ、どうだろう、この場合「あなたは実は哲学的ゾンビですけど」と言った方が面白いのかな。

哲学の授業中に
先生:という訳で、コギトエルゴスむんで私には意識があるし私は存在します。然しあなたに意識があるのか私には解らない訳です。
生徒:あ、バレましたか。実は私には意識が無いのです。
先生:おまえぇぇぇぇぇっ!
という場面を想像してニンマリする。

2015/03/11

花粉とマニュファクチュアリングうんこ

そういやそろそろ花粉が本格的にシーズンが始まっている筈なんだけれど、今年は未だアゼラスチン塩酸塩やらフェキソフェナジン塩酸塩やらを咽まずにここまで来ている。
小学生だったか中学生だったかの時分よりこの季節には(薬を咽んで尚)常に洟を垂らし続けていた私には、この時点で既に快挙と言っていい。
寝るときに鼻が詰まっていないのである。
米を咀嚼するのに息継ぎしないのである。

夜になって一度や二度くしゃみをすることはあるが、薬無しだとずっと洟が止まらないというようなことはない。
但、顔の皮膚は花粉の季節らしく乾燥していて荒れ気味だし、目も朝晩はメガ痒くなったりすることもある。
然し例年に比べると全然余裕。

このブログの過去記事からするに、私の場合大体今の時期ぐらいから花粉症の症状にウンザリし始めている様子。
恐らく例年なら2月終わりぐらいから症状が出ていると思うんだよな。
ということで、今のところ症状が出ていないのは、単に症状が出るのが遅れているだけなのか花粉症体質がマシになったのか判断しかねる感じ。

最近、ビオフェルミンを朝晩2錠ずつ咽んで、あと食物繊維をオーバードーズしている所為でうんこユルめでブリブリまるし屁がやたらと臭い。
うんこマニュファクチュアラー。
「お前んトコの製品マジうんこ。」「うんこマニュファクチュアラーですんで。」でお馴染みの。
なんか乳酸菌だの腸内細菌だのがアレにアレしてどうの、という近年よく耳にする噂を鵜呑みにしてみているんだけれど、これもそのおかげで花粉体質がマシになっている・・・のだったらいいなあ。

2015/03/07

ベースを弾くことの弊害

普段ギター弾いている人間がベースばっか弾きまくることは、まあ指のトレーニングにもなりそうだし悪いことではないんじゃないか、と思っていた。
弊害らしい弊害も想像できなかった。

最近ベースばっか弾いてたので、そろそろ右手指先の皮膚の硬さも板についてきた頃。
で、久し振りにギターを弾いたんだけど。
ギターの音が軽く聞こえるとかスケール感や弦の硬さに違和感が出るとか、まあ微妙にはないでもないが、そんなのは2分も弾いてれば勘も完全に戻る。
そんなのは少しも弊害ではない。
然しひとつだけ、弊害と呼んでいいことがあった。

ギターはまあ基本的には普通にピック弾きな訳です。
ULTEXのJAZZ III。
こいつでガシガシ弾くと、結構高い頻度でピックを落とす。
指からスッポ抜ける。
普段滅多にピックを落とすことがないのに。
よく考えたら、右手の人差指の指先の皮が硬くなってる所為。
丁度ベースの弦が当たる部分でピックを持ってるんだな。
人差し指だけ、皮の硬い部分が指の中心より親指側にかなり寄ってるんだよな。
で、ピックの持ち方が逆アングル気味になったときに丁度皮の硬いとこだけで持つような格好になって、それで指とピックの間の摩擦力が減ってスッポ抜けるんだな。

ということで、もう少しこの指に慣れが必要。