2007/05/31

実在論

つまり、あれだ。
「実在論なんてのは哲学の問題としてはあんまり要らんなあ」という種類の反実在論。

「ツチノコは実在する?」
「いやあ、実在はせんだろうがねえ。」

日常会話におけるこういう問答は、有意味だ。

「心は実在するのか?」

この問いは、哲学チックだけれども、問い方を間違えている不適切な問いなのだ。

つまりまあ、そういうことだ。

2007/05/30

曲を描く話です

ぬわー!
進まねぇ!
あれか?
牛歩戦術か?
でも実質的には止ってるからアウトじゃねぇ?
週に一つぐらい仕上げればまあ問題無いだろうとか考えていたのに何日かかっとんねん!

2007/05/29

グルーミー・コピーライト

「著作権」という言葉自体が今や私にとって吐き気を催すものとなりつつあるようだ。
少なくとも芥川の大正の時代には、著作権は待ち焦がれられた存在であった。
が、今や著作権は、著作者にとってさえ有用なものなのかどうか疑問に思えてしまうようなものになってしまったのだろうか。
私は著作権という概念全体を丸ごと捨て去るべきだとは全く思わないしし、寧ろ著作権は非常に重要で必要不可欠なものだと思うが、それでも最近の著作権周りの記事を見ていると、私は酷く憂鬱になって、さっさとこの世からおさらばしたくなる程だ。まあ実際におさらばするのは一寸待って欲しい。そのうちほっといても数十年以内にはおさらばするので、私におさらばして欲しい人は、まあ気を長くして待っていてください。

或は憂鬱の余り、議会による漸進的改革やよりまともな民主主義という希望ではなく、暴力的革命や哲人王による統治なんていう、冷静になれば私自身到底受け入れられないようなものでも、「まあそれでもいいか」と思ってしまいそうになる。

例えば↓
ネット上にデータを保存するサービスはすべて著作権侵害で違法です(GIGAZINE)
音楽データのストレージサービスは著作権侵害、利用主体はユーザーではなく提供会社に(CNET Japan)
個人用ネットストレージサービスは著作権侵害との判決(Slashdot Japan)
JASRACのプレスリリース
とか見ていると。
司法よ、お前もか。
JASRACさんの怒りどころがイマイチ能くわからんので、プレスリリースの題名を引用するのにさえおっかなびっくりな訳です。
キレたら手が付けられない。
ああ、昔学校にそういうややこしい教員がいっぱい居たなあ。
なんであの人達は・・・。まあその話はいいや。

オウケイ、我々市民の為すべきことは、著作権全体を全て投げ捨てることではない。これは一応確認しておこう。
我々の為すべきことは、著作権を、限られた一部の利権団体の為ではなく、著作者や著作物の流通に携わる人や著作物の享受者等々といった我々全体にとって有益なものにする為の議論、まともな著作権とはどういったものかということについての議論をすることである。一応確認しておこう。
こういうことを確認しておかないと、私は憂鬱の余り、そんなもんもう要らんわー、とか言って暴走しそうである。

といことで、例えば著作権管理組織は著作権侵害の可能性のあるものを発見したら、それを著作者に知らせて、で、その著作者が「そいつは侵害にあたる」と言った時点で著作権侵害が成立する、というのはどうだろう。
で、この「そいつは侵害にあたる」と言って最終的に著作権侵害を成立させることができるという権利を著作者本人は(生存中は、或は自分で判断しその判断を表明できる間は)第三者に譲ることができないようにするか、或は一旦譲ったとしても、例えば譲った先が変なこと言ったときに、著作者自身が取り戻したいと思えばいつでも任意のタイミングで取り戻すことができるようにするってのはどうだろう。
まあ著作権の問題の核心部分は全く触ってていないような気もするけれど。
一寸はマシになる?否、これでは未だ駄目か。
もっと色々な状況に分けて考える必要がある。
うーん。どうもポンコツ脳プロセッサを積んでる私では、知恵が浅い。

ソフトウェアの世界のコピーレフトは非常に有用な考え方だが、然しコピーレフトだけで万事うまくいく訳ではない。
コピーライトも必要だが、まあJASRACみたいなのが幅をきかせている現状のままでは駄目だろう。(私は音楽をしているので、JASRACが一番先に思い付くのです。同人誌でも描くならあのネズミを挙げていたかも知れない。)
因みに勿論私はJASRACが存在することが悪いと言っているのではない。私はJASRACのような発言力の強い団体がよりまともな団体となることを願っているのである。

コピーレフト的なスタンスの音楽が流行らないかなあ。
クリエイティブコモンズもなぁ、あれは・・・。

まあ兎も角、我々はこの件に関して沢山のことを考えなければならないらしい。
超天才裁判官様がまた人智を遥かに超越した判決を下してしまう。
その御心は我々俗世の普通の市民には到底量り得ず。

2007/05/27

京へ参る。
東から真ん中らへんまでの範囲を。
寺町二条の辺りで茶を買い、哲学の道、銀閣の辺りをぶらつき、何を思ったのか不味い飴を沢山買い、烏丸二条辺りの香の店に向かうも何故か辿り着けず、河原町辺りで逡巡の末鳥を食む。
寝不足故、ハジケリストっぷりを発揮しながら。

2007/05/26

見べきものは見つ

A5の無地のノートを手に入れた。
でもなんか分厚過ぎるんだよなあ。
モールスキンのラージタイプぐらいの嵩がある。
或はもう少し大きいかも知れぬ。
100枚、リング、縦開き、というスペック。
なんか散々買うか迷って結局買ったのだけれど、冷静になってみると今使ってるルーズリーフの方が良いような気がしてきた。
くそぅ、また浪費癖が。
CDも買ってしまったし。
普段なら「まあいいや」と思って買わないでおくようなものまで買ってしまった。
但し非常に久しぶりにロックのCDも混じっている。
然し昔から識っている人のものばかり。
ロックについての新しい知識を手に入れていない。
というか私にとってロックについての新しい知識など存在するのだろうか。
と豪語したくなる昨今。
ロックに見べきものは見つ、と思わなくもない。
同時に未だ見ぬ見べきものがある筈だとも思わなくもない。
まあ無いなら創ればいいのだけれど。
私はまさにその為に居るのだから。

2007/05/25

日本の車窓から

阪急や南海の車窓からの景色と見分けのつかないような変わり映えしない日本の景色の中を新幹線が飛び、私はそういう新幹線の車窓から外を眺めている訳だ。
集落があれば、そこにはそれなりに沢山の人がいて、その人達は各々に経済活動などに従事している訳だ。
大きな道でも通れば、その道の両脇に結構な数の人間が生活している。
今視界に入っている町の人達は、その他の人達同様、各々の人生を、誰でも精一杯にとは言わないまでも、まあ兎も角少なくとも死なない程度にはそれなりに力を入れて、生活している筈である。
私は以前、ぼんやり眺めていた或街の一つのビルの中に、一つに視野に収まるようなビルの中に、普通の都会の一つのビルの中に、何十人か何百人か或は何千人かは知らないが、兎に角沢山の人の入っているのを意識に認識して、そしてその人達の各々一人一人が自分の感情だとか人生だとかを持っていることに意識が及んで、その頃、絶不況の日本、終身雇用の解体や能力主義が叫ばれていた日本の中の、(今と変わらず)浅はかで感化され易い若者であった私が、自ら採っていた実力主義や市場経済至上主義や個人主義を、私自身、丸ごと捨てなければならないことを理解した、ということがある(実際にそれらを捨てることができたのはそれから何年も経ってからであったが)。
福満しげゆき風に言うなら「みんな自分が主人公だと思っている。気が遠くなる。」、というような感覚や、或は幼き日の涼宮ハルヒ嬢の自らの私的な無力感に繋げた感覚が、私ではどういう訳か自らの公的な主義の放棄に繋がった訳だ。

つまり、まあ、そういうことだ。

車窓から見える風景からその町に住む人々の生活について、どこに人が集まるのかだとか、移動手段はどうとか、どこで働いているのだとか、どこに買い物に行くのだとか、散歩すべき道はあるのかだとか、想像するのは楽しい、という話。


或は電車というものは、いつも次のことを私に痛感させる。
私の哲学は人を愛しているし、そうすべきだということを理解している。
然し私の脊椎は、人間を嫌悪している。
脊椎反射を意識によって抑制するのは、非常に大きな努力が必要である。

2007/05/24

秋葉原のロマン

東京へ参じた。
でかっ!
東京でかっ!
新幹線はやっ!
みたいな感じで、取り敢えず驚いてみました。

帰りに時間があったので、秋葉原で降りてみた。
電気屋とか萌え屋とかが、でかかった。
沢山のメイド達が街を闊歩してたりチラシを配っていたりしていた。
割と美人ばかりなのには驚いた。

駅へ戻る途中の一角に「文化創造装置としての秋葉原を目指す」みたいなことが大真面目に書いてあった。
字義通りに解釈するなら、それはなかなか素敵な意気込みだ。
然し実質的には「創造」というよりは「消費」だろう、と、ロマン主義者の私は苦笑しながらその前を只通り過ぎた。

2007/05/23

東京

訳あって、一寸東京へ行って参ります。
東京デビューです。
因みに東京でアイドル歌手にでもなるのではないです。
つまり初めて東京の土を踏む訳です。
「うわぁ、東京だー」と何かに驚いてきます。
秋葉原ってやつを、車窓からちらっと覗いてこようと思います。

そういや、土といえば、甲子園で負けたところは甲子園の土を持って帰るのをテレビでよく観るけれど、優勝したところは甲子園の土を持って帰るのだろうか。
まあどうでもいいことだけど。

2007/05/22

無為

進まず。
調子が悪い。
この前試しに買ってきたナイロンカーボン製のピックがどうも気に入らず、一寸先を好みのカーブに削ったりしながら時間が過ぎる。

2007/05/21

呼吸

特に何事も無く。
すべきことも進まず。
吸って、吐いて、一日が終わる。
すぅ、はぁ。
じゃあ寝ようか。

2007/05/20

ナイマン

調性からの離脱に対する拘泥を取り払わなければならない。
ナイマン上等。
私は自分に、余りに多く、逆向きの制限を設け過ぎるという欠点がある。


拙い(単に「不味い」だけでなく)ウィスキーは身体にも精神にも拙い、ということを確認する。
蒸留の仕方が拙いのだろうか。

2007/05/19

維持

特に無し!
あったかも知れないけど、無し!
寝る!
今日も頑張った。
頑張って生命を維持した。

2007/05/18

ノート

またノートを探している。
いつもの筆記用具道楽というよりは、必要に駆られて。
無地でA5ぐらいの。
メモ的用途に。
ページが切り離せるのがいい。
縦開きでも横開きでも。
リングのは鞄の中で潰れたりしそうで嫌。
と、色々探したが、見つからず。
しょうがないのでしばらく大学の学部生の頃使っていたA5のルーズリーフでも使うとするか。
もう一寸薄いのがいいのだけれど。
無印とかに売ってたかなあ。
梅田のアソコか、心斎橋のアソコか、本町のアソコらへん(私は大抵店の名前など一々覚えていないのです)に行けば、何かあるだろうけれど。

2007/05/17

買い時

MacBookがズンと安くなりやがった・・・。
これはなんかもう買うしかないのか。
ギリギリ買えなくもない。
然しLeopard出てからにしようとか、メモリ4Gに対応してからとか、なんかもう少し薄くなるとかならないとからしいとか、ExpressCardスロット着かないかなあとか、欲が出てしまう。
買い時が判らない・・・。
Leopardが約半年後なので、そのときまでにCPUやメモリの直段がどう変動すると予想するかが、私の中でのカギ。
半年後に4コアがメジャーになってるとは思えないし、次のモデルには飛躍的に高スペックのCPUが乗るとは考え難いような気がしなくもない。
メモリは最近値が下がったみたいだけれど、半年後にノート用2Gメモリが多少頑張れば買えるという程度の直段になって、MacBookが4Gメモリに対応するというのも一寸考え難い。
ということで、多分、私にとっては、半年後より今が買いなんだろうけど、どうも踏ん切りがつかない。
てゆうかスペック的にも直段的にも全く以て不満はないのだが。
恐らくLeopardが出ればほぼ間違いなく買うんだろうけど、そのときでさえ「もう一寸待てばもっと良くなる」という悪魔の囁きに踊らされるかも知れない。
Pentium4がPrescottコアになった頃は、「パソコンは欲しいときが買い時なんだろう」ぐらいに思えていたのだけれど、CoreDuoとかCore2Duoとかが出だしてから、一寸能く判らなくなってきた。
うーん。どうしたものか。

2007/05/15

競走馬の目のアレ

進まないねえ。
今日こそは頑張ろうと思ったのだけれど、結局全く進んだ気がしない。
一、二ヶ月程前に、新しく描き始める曲に通し番号を振って管理しようと思ってやってたのだけれど、既に10番まで割り振ってしまった。
まあこんな色々手広くやってるから進まないのだろう。
時間もそんなに無いし。
一曲に集中して描いていくべきか、或程度同時進行を許すべきか、どれが便利なのか判断できないでいる。
私の性格上、ほっとくとどこまでも手広くやってしまうので、兎も角完成品が必要なときには、自分で意識して自らを限定しなければならない。
然し一方で自らを限定するのは自分の無才能を認めるようでイヤだ。
私はブッチギリたいし、できる限りそうすべきだとも思うのだが、実際に私にブッチギルだけの能力は無いことを知らない訳ではない。
私は自ら創造的であることを志さなければ、もっと楽なんだろうけど。
或は私が音楽の身体性のみに気を遣うだけでよいのなら、もっと楽なんだけれど。
残念ながら、私は意識や理性や精神や人生等々のある、普通の人間なのだ。
型をなぞるのは、私の得意としていることである。
然しそれは「私の」ものではないのだ。
ロマン主義な私は、「私の」ものが欲しい。

停止、退行

すべきことも余り進まず。

例の彼は歴史に自分の名前さえ残ればそれが汚名だとしても良いと考えているのだろうか。
或は憲法を彼の言うように変える必要があり、而もそれが今特にしなくちゃいけないことだと本気で考えているのだろうか。
心が折れそうだ。
反対派や批判精神を持った知識人の心を折る為の新手のレイプか!
内閣支持率は50%前後あるが、その理由のトップは「他の内閣よりは良さそうだから」で、政策を支持しているから内閣を支持しているという人は少ない、ということがまだ救いか。
因みに不支持の理由のトップは「政策に希望が持てない」。
��確かNHK調べだったかと)
数字の上っ面だけ見ると、政策に対して積極的態度を以て内閣の支持不支持を決めている人は今の内閣を支持しない傾向にあるように、無理矢理見ようとすれば見えなくもないかも知れないかも知れないかも知れない。
ということで、独り勝手にそう思うことにしよう。
そうでもしないと心が折れそうだ。

2007/05/14

狡猾、ライブ、募集広告

色々と間違ったものを買った。
例えばインク、黒を買うつもりがブルーブラックを買っていた。
もう駄目だ。
中古で買ったフットスイッチが、私の目的を遂げるのに利用できないことが判った。
実際に目的を遂げる為には、新品価格で20000円ぐらいするヤツを手に入れなければならないようだ。
もう駄目だ。
もう駄目だ。

私は昔は陰険で計算高く狡猾な人間だった。
私は今や只陰鬱なだけの人間になってしまった。


友人達のライブを観に出かける。

酒はウィスキーに限る。
命を削る命の水だ。
ワインはもういいや。

私の為すべきことは、創造的に、自由になることだ。
それに美しいと感じたものを「それは美しい」と宣言する勇気を持たねばならない。
そしてそれが美しいとはどういうことなのかを分析し記述できるようになる為の努力を積まねばならない。
私ではまだまだ努力が足りない。
というようなことを理解した。


どこかに暇なミュージシャンは転がってないものかねえ。
若しアナタが自ら更に創造的で在ろうと願うのなら、それは我々の願いとも一致する。
若しそうなら、我々はアナタと、手を取り合う訳にはいかないだろうか。
我々ヘテロ楽団は、慢性的な人材不足に悩まされている。
常に人材を募集してます。
特にリズム隊募集してます。

2007/05/13

与えられる概念ツール

普通教育が必要なのは、一つには、我々人間は平等に扱われ、等しく自由に生きる権利を持つものとして扱われるべき存在である、といったようなことを誰でも知っているような世界を実現する為であり、更に、誰でも、そのような「自由」や「平等」や「幸福」が実際にはどのようなものであるべきなのか或は実質的には何を意味しているのかといったようなことをちゃんと議論することができるようになるような世界を実現する為である。
勿論他にも注目すべき重要な目的はあるが、この目的も重要である。
学校、少なくとも普通教育の学校は、単なる汎用的職業訓練所ではないし、人間をシステムに従順になるように仕組む為の施設でもない。
普通教育施設を単なる「汎用的職業訓練所」や「こども洗脳工場」として扱うべきでないし、実際にそうなろうとしてきるときにはそれに抵抗すべきである。
「学校で習ったことは社会に出たら役に立たない」という考えは、学校がまともに機能している場合には、誤りである。(而も、「社会に出る」は経済的自立をのみ意味し、「社会」とは自分の周りの非常に狭い範囲を指す場合でさえ、これは誤りである。)
自由に考え、議論する為には、そして自由である為には、実に多種多様な概念ツール(言語)が必要なのである。

このことは、当たり前のことかも知れないが、忘れられがちである。
異常心理ブーム以来、「与えられる概念ツール」や「教育」などと言うと、直ぐに洗脳と結び付けたくなるかも知れない。
また似非ポストモダンのように「唯一絶対の正義など無い」「唯一絶対の真理など無い」等から「総ゆる教育は洗脳と同じである」を短絡的にも導き出したくなるかも知れない。
然し我々は、他の概念についても同様に、民主主義について教えられること無しに民主主義について十分に考え得るだけの概念ツールを開発することは非常に難しい。
我々は先人達の遺産の上に立っているのだ。
悪い遺産もあれば良い遺産もある。
良いか悪いか微妙な遺産ではなく、明らかに良い遺産を蓄積してゆくことは、悪いことではなかろう。

2007/05/12

削る

十分に寝ずに生活するのが慢性化している。
まずいなあ。
心身に悪そうだ。
特に腹の突出や皮膚の保水量や頭髪の量に悪影響がありそうだ。
老いそうだ。
そいつはいよいよまずい。

2007/05/10

吐瀉或は消化

久しぶりに酒で魔ジュニアを産みそうになった。
私は今まで生きてきて、酒を覚えたての頃の一度しか魔ジュニアを産んだことがないのだけれど。
とうとうここに来て二度目か、と思った。
ここのところ、まともに呑んでいないので、アルコール耐性がかなり低くなっているのです。
それに胃が破裂して死ぬかという程喰ったので。
てゆうか酒よりこっちのほうに問題が。
で、胃が、盗んだバイクで走り出すぐらい反抗期に。
ダサ鬱陶しいことに、ナイフみたいに尖って居やがる。
帰宅途中の電車の中で、「意識的に吐こうと思えば吐ける」というぐらいになったので、途中で一旦下車して、駅のベンチで次の電車が来るまで座って呼吸を整え、胃を落ち着かせ、上へ行こうとする者どもを下へと導いて、結局は難を逃れることができたのだが。
チベットの僧侶並みの身体コントロール。
生まれて初めて、胃の内容物がゴボゴボと腸へと移動するところを知覚することができた。

プラチナ

万年筆がまた欲しくなってきた。
プラチナ萬年筆の。
色々考えた結果、プラチナのがいいのだろう、というふうに、考えが変わってきた。
やっぱ硬い方が好い。
セーラーの柔らかいのも好いけど、硬い方が好い。
愛用のモールスキンのノートが、なんか結構紙質が安定しなくて、今使ってるのはインクの吸収が良過ぎるのです。
これだと、セーラーのではインクが出過ぎる。
私は字も尋常でなく汚いし、絵も下手だが、なんかこういうことに自分の好悪を明確に示すのが好きなのです。


弱肉強食という社会理論、つまり人と人との関係をライオンに喰われるシマウマという薄っぺらな自然誌観にから見た関係と同一視する理論、或は適者生存や適応主義という社会理論、つまり生物進化についての理論を理性や人権や正義や倫理抜きには語れない筈の人間社会に不適切にもそれら抜きで当て嵌めた理論、こういった「勝者の理論」に慣れ親しんだ経済的勝者がその勝者の理論を捨て去るのは多大な努力を必要とするように思える。
本当に自分の力で勝利を勝ち取った訳でもない勝者でさえ、意識的であれ無意識的であれ一度自らを勝者と位置付けてしまうと、その勝者の理論を捨て去るのは難しいのだろう。
間違った理論に基づいて振る舞うことで被る不名誉に同情を禁じ得ない。
不幸にもこういった奇妙な理論が見直される機会が少ないのは、一つには、日本の経済が幸運にも他の多くの国のよりも潤っているおかげであるかも知れない。
或は勿論他の原因もあるだろうが。

というようなことを漠然と感じる電車の中。
この中の人達の殆どは兎に角喰うには困っていないのだ。
一応は識字率も高くそれなりの教育環境の整っている日本において、貧困に喘ぐ人々への関心が薄く、そういったことが到底選挙における争点などには殆どなり得ないのは、こういったことが関係していなくもないんじゃないだろうか。
若し多くの日本人或は工業先進国の人達が、一度貧困に喘ぐ人の多く居る国の人達のことを、我々が人間として扱われるように真面目に人間として扱うべきだということに関心がいけば、上のような奇妙な理論が到底受け入れられるべきでないものであることは一目瞭然に解るだろうし、そうすれば世界は一寸はマシになるんじゃないかと思わなくもない。
我々の多くは幸運にも書いたり読んだりできるのだし、兎も角選挙における一票を持っているのだから。

2007/05/09

武者小路実篤

今日会った人の名前が思い出せない。
私の灰色の脳細胞は今や私が人としての生活をするのに必要なだけの仕事をこなすことができない程になっているようだ。
まあ人の名前が覚えられないのは実際のところ今に始まったことではないが。
最近では名前を聞いて3分で忘れてしまう。
以前は5分覚えられていたのに。

かなり努力して覚えようと努めるのだけれど、結局忘れてしまう。
この頭の悪さが私のコミュニケーション能力の低さに拍車をかけていることは疑い得ない。
その人の名前を呼べないので会話が制限されてしまう。
私が初めて会った人と話をしているときに主語の無い文を不自然に連発しているときは、多くの場合、その人の名前を忘れてしまっているのだ。
若し私が初めて会った人の前で実際にそのような文を連発しているのを見たら、横からそっと小声で件の人の名前を教えてください。
或はその人の名前を含む文をひとつ、巧みに会話に紛れ込ませてください。

武者小路実篤並みにインパクトのある名前だと覚えられるのだろうけど。
あれは、実名らしい。

2007/05/08

安全保障の為その国へ、武装して。

サルコジが勝った。
そいつは驚きだ。


人間は人を殺したことの責任を十分な形でとることなどできない。
それから、人は見識らぬ人1565人の死者と1566人の死者とがそれぞれ含意していることの違いを認識することができないだけでなく、恐らくは、15653人の死者との違いも認識することができないだろう。
交戦とは、人に人を殺せと命じさせ、そして命じ、その命令通り人を殺し、そして人が殺され、或は自らの仲間を殺されうる状態に置く命令を命じさせ、命じ、そして仲間をその状態に置き、或は殺される等々、といったことを含意している。
「戦争」或は「軍隊」といった言葉は、これらのことに対する想像力、或は交戦する者や殺された者の一人の人としての物語についての想像力を必要としないで使用することができる非常に便利な言葉である。勿論皮肉を言ってるのです。
この世の誰が、或はどのような組織が、人に人を殺せと命じるような権限を、正義に適った仕方で持っているのだろうか。
或は誰が、そのような権限を持つべきと言えるのだろうか。
勿論反語です。

他国と足並みを揃えることは重要である。
但しそれは、正しいことについて足並みを揃えようというときだけに限られる。
地球の環境破壊を止めようと各国で足並みを揃えるということは正しいことで、従って例えば京都議定書を批准したり未批准の国に批准を進言したりするのは概ね正しい「足並み揃え」行為と言えよう。
同様に交戦権や軍の保持について憲法に明記することについても各国で足並みを揃えることは善いことである。
どこかのテレビ番組で改憲論者の国会議員のセンセイが「こんな交戦権の否認なんてことやってんの日本だけですよぅ。」というようなことを言っていた。
まさにその通り。
つまり戦力の不保持や交戦権の否認を他国に呼びかけることも正しい足並み揃えと言える。
或は各国で足並みを揃えて非武装でイラクの復興支援をすることも、恐らくは正しいことだろう。

序でに言っておくと、ディズニー風70年著作権に反対し、その放棄を他国に呼びかけることも正しい足並み揃えである。

2007/05/07

謙遜

また恥ずかしい曲を描いている。
私の描く曲には一曲につき一つのテーマしかないことが多い。
以前は一曲に色々詰め込み過ぎて複雑になり過ぎる傾向にあったので、ここ数年「よりシンプルに」を心掛けていると、いつの間にやら一曲一テーマが染みついてしまっている。

私は、テストを前にして「昨日全然勉強せんかった。」と言って本当に勉強してないというぐらい正直だし、それで満足のいく点を採れれば「勉強せんでこんな点数を採れる私は頭が良い。」と言うぐらい謙遜を知らぬので、私が恥ずかしいと言ったら実際に恥ずかしいと思って頂いて結構。
私が謙遜のような高度なコミュニケーション技術を使用するには、私の脳味噌のリソースを消費し過ぎるのです。
皮肉は自然と言えるのだが。

2007/05/06

./configure、make、make install

私は現在他人のMacでMac OS Xの使い方を覚えているところの俄Mac使いな訳です。
自分のMacは未だ持っていないのです。
MacBook欲しいなあ。
で、今日その人様のMacにSylpheedを入れようとしたのだけれど。
まあLinuxはそれなりに使えるようになってきたので、同じくUNIXベースのMac OSもそんなに変わらんだろうと高を括ってたのだけれど。
ちょーメンドくせえ!
てゆうか、ほんとうに入れれんのか?
SylpheedはMac用のパッケージは用意されてないし、しょうがないからソースからメイクしようと思って、ソースを落としてきて、./configure、と思ったら、「君んとこにはコイツが足らんのでメイクファイルが作れんのよ。ココから落として先にインストールといして。」とターミナル越しに親切にも教えて頂いたので、その通りにしようと思ったのだが、どうした訳かインストールしといてと言われたものがインストールできない。
で、あれこれやってみるが、恐らく私の俄者スキルでは敷居が高すぎるのだということが解ったに留まった。
LinuxならSylpheedのパッケージがあるから非常に簡単にインストールできるのだけれど。
なんでMacのは無いんやろう・・・。

2007/05/05

個別化の街

好い夜だ。
こんな夜は、外へ出て、コンクリートとアスファルトと若干の土の混ざった臭いを嗅ぎながら街を歩くのも悪くはない。
が、私の住む所の周辺は歩くべき道を持っていない。
陽が落ちてから一寸出かけようとなるような道が無い。
そろそろここから逃げなくちゃ。
この街の夜は人を停滞させる。
街の形の所為で空気に何か重いガスが充満していて、人に家から出ることを尻込みさせる。
人々は空気に怯えてそれぞれの家の中で孤立する。
外は私の世界ではない。
そこには街造りの悪意すら感じる。
或は美と浪費との素朴な同一視に原因する、美に対する憎悪を。
ここにいたら私は呼吸器から腐敗が進行してしまうだろう。

2007/05/04

Wikipediaにおける不可解なデネット像

最近Wikipediaの哲学に関する項目が結構充実してきたねえ。
と思って、私がつい最近まで携わっていた(が私は頭が悪い上努力もせず(謙遜でなくマジで)、故に大してモノにはならなくて、結局ドロップアウトしてしまったのだが)心の哲学分析哲学に関する項目をペラペラ見てたのだが。
ぱっと見た感じでは、少なくともデネットの項目は非常に不正確だ。
うわあ、ひでえ。
読み方の違いでどうこうというより、単に、デネットの基本的な立場を完全に捉え損なっている。
私は学生の時分デネットを主な研究対象のひとりにしていたこともあって、デネットには思い入れがあったりなかったりするので、ヒトコト言っておこう。
断続平衡において「進化には連続性が途切れる地点がある」なんてことはグールドもデネットもこれっぽっちも言ってないし(どこからこんな誤解が出てきたのか非常に不思議だ)、ライフゲームが複雑化したときに単に予測が難しくなるんじゃなくて、人間にとって、物理的スタンスからの予測が難しくなって設計的スタンスや志向的スタンスを使った方が効率よくうまく予測することができる、ということをデネットは言っているのだ。
[2007/05/08追記:さっき一寸見返してみたところ、私が間違っていた。実際のところは「予測不可能なパターンを産み出すことを明らかにする」とは恐らく「どのようなパターンが見られるのかは予測不可能である」ということを意味しようとしているのだろう。後ろの「明らかにする」がイマイチ意味不明なのだが。「予測不可能なパターン」という記述を、「パターンを示しているにも拘わらず、それが予測不可能である」というような字義通りの矛盾した意味でとってしまって、余りにも意味不明だったので、私はこの記述に過剰に反応してしまった。デネットの通常の言葉の使用の仕方においては「パターン」は予測可能でなければならないのです。という訳で、慈悲が足りなかった。(まあWikipediaのこの記事が全く以て正確でないことには変わりないけど。)このことからも私の頭の悪さは証明される。]
そういや断続平衡についての誤解はNewtonでもあったなあ。科学雑誌にあるまじき。
因みに断続平衡については、グールド本人の著作もいいが、キム・ステルレルニーの『ドーキンスvsグールド』が手軽で解り易く色々参考になる。(Amazon→『ドーキンス VS グールド』)ちぇけら。
Wikipedia内の断続平衡説も参照のこと。

それから特に「デネットによれば、人間の自由意志とは自然の進化によって産み出されたものであり、したがって人間の生をより良くするものにほかならない。科学の発展を通して自由を自然主義的に理解することが人間の生活を向上させていくとデネットは結論する。」ってのはまるっきり嘘っぱちなので、というか逆のこと言っているので、これを読んで、デネットって頭のおかしい神秘主義者かなんかなんだなと思ってゲンナリする必要は無い。
私は自分の論文では最終的にはデネットとは細かい部分で違う立場を採ったのだが、それでも、サールネーゲルウィトゲンシュタイン・・・etc.あたりと同様に、心の哲学やるなら一度は読んどくべき哲学者だ思うし(エンターテインメントではなく普通に心の哲学やるなら茂木健一郎の本なんかさっさと窓から投げ捨ててしまうべきだ。私の窓の外には何故か・・・後略。彼には沢山ゲンナリさせられた悪い思い出があるのです。)、非常に面白い哲学者ですから、これから心の哲学を勉強しようと思ったりデネットを読もうという人は、このWikipediaの記事を読んで挫折しないように。
で、この記事のこの部分の問題点の一つ。
設計的スタンスによって説明される生物進化が志向的スタンス無しに説明され得ないような「人間の生」をより良くするとかいう物言いは、デネットが注意しろと繰り返し言ってたじゃないか!
てゆーかそりゃダメ適応主義者の主張だ。
キョービ、批判で揉まれた(筈の)社会進化論者でもそんなアホなこと言わんやろぉ(多分)。チッチキチーやで。往生しまんで。
デネットはグールドに比べればまあ適応主義に近いと言えるだろうが、これ程行き過ぎた適応主義では全くない。
因みにミームの進化でさえ人間の生の良し悪しとは対応関係にない。
それに自由は自然主義的に理解するものでは断じてない!というのがデネットの主張なので、これはデネットとは真逆のことを言っているのだ。
デネットの最大の功績のひとつである志向的スタンスと物理的スタンスの区別を、このWikipediaの記事では全く以て忘れてしまっているので、ダメなのだ。
というような感じで、色々なところで、まるっきり間違っている記事である。
デネットは、ちゃんと神秘や奇跡に訴えることなく物理的決定論と人間の自由とを両立させてますので。
Amazon→『自由は進化する』

因みにもう一人の私のメインの研究対象であったローティは、多分こっちの方がデネットよりよっぽど有名なんじゃないかと思うんだけど、なんか未だ殆ど書かれていないようだ。

それから、今日は沢山Wikipediaへのリンクを張ったけど、そのリンク先の記事が正確かどうかはちゃんと見てないので悪しからず。
最近Wikipediaもなんか記事の正確さについての権威を失いつつあるように見えるからなあ・・・。

2007/05/02

無為

なんか今日は一日中眠い。
何もできなかった。
本など読むも頭に残らず。

robot

アマゾンから頼んでおいた本など沢山届いた。
給料日直後にして既に自重生活に入らねばならなくなった。
ということで、本日は読書日和也。

漸くrobotを手に入れた。
フルカラー漫画誌。
安倍吉俊冬目景辺りが目当て。
漫画、というよりはオムニバス画集という感じかも知れぬ。
直段的にも。
一人に充てられているページ数も少ないし、漫画としては余り面白くはない。
コマ割りと台詞付きの画を観て楽しむという感じで。

2007/05/01

意味、還元主義、芸術

「意味を理解する」には、少なくとも二つの極端に還元的な捉え方がある。
一つは「意味」を話者の意図へ還元してしまい、意味を理解するとは話者の意図を理解することに他ならない、とするものである。
もう一つは、「意味」を受け取る側の解釈へと還元してしまう捉え方である。
「意味を理解する」とは単に受け取る側がそれを解釈するというだけのことだ、という訳である。
これらの捉え方に真面目にコミットする必要はないが、兎も角こういった極端が存在することを知っておくことは、評論上の詐欺に遭わない為に有意義だろう。
特に、「芸術の意味を理解する」とは上のような還元的な意味だと宣う御方の仰ることに耳を貸す必要は全く無い。
芸術についての書物の中にそういった記述を見つけたらすぐに本を閉じて窓から投げ捨ててしまっても構わない。
そういった捉え方は「芸術の意味」を全く以て無味乾燥にするだけのものに過ぎず、それ以上の何か取るに足るような意義は全く無い。
私の部屋の窓の外には最初の数ページだけ読んだ本がバラバラと散らばっていて、部屋の中に残っている本が非常に少ないのはどういった訳だろう。