2015/12/26

ガンガン

河内和泉。
もうEighthは15巻まで出たんか。
光陰矢の如しというか。
機工魔術師の終盤が余りに面白かったこともあって、機工魔術師が終わってEighthが始まった頃は「前程ではない」と思ったのだけれど、Eighthも途中からすげー面白くなってきた。
そういや機工魔術師も最初はそれ程ではなかったんだよな。
しりあがりなんだよな。

河内和泉とか荒川弘辺りは中高生ぐらいの頃に読んどきゃよかったと思う。
そうしたら私ももう少しマシだったと思うんだ。
私は今よりももう少し馬鹿だったので、例えば勉強とかダサいと思っていたし、努力を目的とした努力しか知らず、従って努力は間違っていると思っていたし、何かを選べば他を疎かにすることが許されると思っていた。
然しアレは、ちゃんと考えて全部を努力するということを教えてくれる漫画だと思うんだ。
だからちゃんと葛藤があって、そこが面白い。
何か選択したり決定したりするにしても、どっかから借りてきた独善的で独断的な正しさを振りかざすようなことはなくて、心地良い。

「二兎追うものは一兎をも得ず」とか兎もまともに追ったことないクセに知ったような口を利く連中の言うことを正しく無視して、ちゃんと考えて疑って二兎追えということを教える漫画だと。

2015/12/20

Gravity Dazed and Confused

胃の具合がとても悪い。
ヤマダ電機の消費税トラップに引っ掛かって(そしてもう二度とヤマダで買い物しないと誓った)買ったGRAVITY DAZEの所為。多分。
3D酔い。Dazed and Confused。

自分の周囲の重力の方向を操るゲーム。
操った重力の方向が地面と並行であれば壁とか走れるし、地球の中心方向と逆であれば空とか飛んだりできる訳ですな。
壁に垂直に立つと髪の毛が地球の中心方向に向かって垂れてたりするし、「重力を操る」というのをガチで物理学的に考えようとするとチョット何言ってんのか解らなくなるけれども。
まあ兎も角、階層状になっている街の中を飛び(落ち)回ったりできる夢のゲーム。

然し私はゲーム慣れしていない所為かすぐ上下不覚になる。
一応、髪の毛の向いてる方向で「下」がどっちか判るようにはなっているのだけれど。
最初はそうでもなかったんだけれど、しばらくやってると、なんか酔ってきた。

これをPlayStation VR(「Project Morpheus」という名前の方が格好良かったのに)とかのVRヘッドセットでやったらどうなるんやろう・・・。
PlayStation VRは買うことがほぼ決定しているのだけれど、というかPlayStation VRを使いたいが為にPlayStation 4を買ったのだけれど、イマイチゲーム慣れできていない私はなんかすげー酔いそうで心配。

2015/12/15

Walkman用、128GBのmicroSD

私のWalkman、NW-A16。
最近バイクが主なので使う機会が減っているのだけれど。

Teamの128GBのmicroSDを入れてたんだけれど、その書き込みができなくなってしまった。
元々入っている音楽を聴く分にはなんともないが、新しい音楽とかPodcastが更新できない。
microSDだけ取り出してUSBカードライターで見てもWindowsがmicroSDを120kbの領域しか認識しないし、フォーマットもできない。
WalkmanのUIからもフォーマットできない。
けどWalkmanをPCにUSBで繋げばmictoSDの中身が見れるが、消去も書き込みもできない。
ううむ・・・。

もうmicroSDの買い換えか・・・。
128GBのmicroSDもめっさ安くなってんね。
私が買ったときは12,000円ぐらいだったと思うけど、今では6,000円前後か。
半分ぐらいの値段・・・。
まあ買ってもいいっちゃあ買ってもいいけれども。

と思ったのだけれど、イッペン物理フォーマットしたろうかと。
カードライターではWindowsの認識がおかしいので、WalkmanにmicroSDを入れた状態で物理フォーマットをかける。
信頼と実績のBuffalo Disk Formatter。
1-2時間放置してると、どうやらフォーマットが完了した。
良し。
で、WalkmanでmicroSDの中身を見てみる。
ああっ!消えてへん!

つうことで、やっぱ新しいmicroSDを買うことにするよ。
なんてこった。

2015/12/14

瓶コーラ

何年か前まではWilkinsonのジンジャエールは瓶のやつをケース買いしてたんだけれど、ケース置くトコ無いし、飲み切った後の処理とかメンドいしで結局ケースでは買わなくなっている。
一本ずつで買いたいのだけれど、近所には売ってるトコ無いんだよな。
ペットのはなんか違うし。
ちょい遠い所にあるチェーンのデカい酒屋には瓶のが置いてるので、そこへ行った時に何本か買うぐらいの感じになってた。

ところで私は炭酸は基本的には苦手なのです。
炭酸飲料はジンジャエールかごくたまにトニックウォーターかぐらいしか飲まない。
ジンジャエール自体もそんなに頻繁に飲んでる訳ではないし。
炭酸水は飲むけど微炭酸のサンペレグリノやし。
一応カクテル用にWilkinsonの炭酸も買ってあるけど、生では殆ど飲まない。
コーラとか年に1回あるかないか。

最近はバイクがあるので件のデカい酒屋に行くのも楽になった。
ってことで、またジンジャエールを買うことも増えてきている。

で、ジンジャエールの瓶のを買おうとすると、隣にコカコーラの瓶のが売ってるんよね。
まあバイクですし、瓶が何本か増えたところで持って帰る苦労はそんなには変わらない。
ってことで、序でに瓶コーラも買ってみた。
家に帰って冷蔵庫に入れて、そして忘れる。

何日か経って、なんか疲れて堕落したいダダい気分で冷蔵庫を開けてみると、コカコーラの瓶が入っている訳ですな。
そうか今か。今こそこれを飲むときなのか。
つうことで栓抜いてグラスに注いで飲んでみると、なんか期待してたのよりすげー美味い。
グイグイ飲める。なんかコレ癖になる。
瓶か。これが瓶のパワーなのか。

ようし宴じゃ酒じゃ。
キューバの自由じゃー。
つって家にあったマイヤーズのダークラムとライムを混ぜてみたらあんま美味くなかった。

まあそんな訳で、家にストックする炭酸飲料リストに瓶コーラが増えた。

2015/12/09

素朴な金銭的価値

言うまでもなく当たり前なのだけれどよく忘れがちというようなことは、日々の生活の中で色々と出てくるものだ。
「価値」と「価格」が別の言葉であるということは、「経済」そのもの自身は計量化の対象でないということと同じぐらいよく忘れられがち。

以下私的言語メモ。

3,000円の紅茶と2,000円の紅茶があって、2,000円の紅茶を買いました、と。
まあ私の財布の中の現金の合計が2,000円分減ったりするわけですな。
然し、「3,000円の紅茶には3,000円の価値があり、2,000円の紅茶には2,000円の価値がある、それ故3,000円の紅茶の方が2,000円の紅茶よりも価値がある」という言説はとても奇妙に聞こえる。

3,000円の紅茶にしろ2,000円の紅茶にしろ、その値札に書かれた値段分の金銭的価値があるというのはまあ(税金やら会計学上の細かい問題はしばらく問わないとして)そんなにはおかしい話ではないので、「3,000円の紅茶には3,000円の価値がある」ってのもまあ理解できる。
まあこれを「素朴な金銭的価値」とでも言おうか。
但「価値」ってのは金銭的価値も意味し得るがそれだけを意味する語ではない訳で、従ってこの「それ故」以降の話が論理が通ってない感じなる訳だ。
3,000円の紅茶には3,000円の価値があるが、3,000円の紅茶の価値は単に3,000円であるに過ぎないということはない。
(あ、因みにこれは価格決定のプロセスの曖昧さについてとか、一意に決定可能な妥当な価格というマクロ経済学気取りの与太についての話じゃない。もっとド低俗で頭の悪そうな話をしているのだ)
素朴な金銭的価値基準でない、他の価値基準からしてみれば私の買った2,000円の紅茶の方が私の買わなかった方の3,000円の紅茶より余っ程価値があると言えるかも知れない。
素朴な金銭的価値基準を用いれば、まあ既に数字で表記されているので、なんか比較したような気分になれる。お手軽に。
然し実際に何か「価値を比較する」と言うとき、その素朴な金銭的価値の比較だけをするってことは殆ど無いんじゃね?
色んな妥当性のある価値基準やら価値観が存在しているし、その中の大部分がなんかエクセルとかR言語とかでどうにかできるようにはなっていないし、そもそもどの価値基準群をどのくらいの配合で適用すべきなのかを(我々の生活世界の外側から、「神の視点」で)一意的に決定するような何かが存在する訳でもないので、「価値」と言って価値全体(そんなものが仮に意味を成すとして)をお手軽に比較することはできないのだけれど、だからと言って素朴な金銭的価値の比較のみを価値の比較として有効と認めるってのもおかしな話。

まあそんな訳で、ベートーベンが首から値札を下げていなかったからといって「芸術には価値が無い」とか言い出すのは一寸どうかしてる。
当然、ポロックの絵が何十億とかだからといってそれ故直ちに芸術的価値が他よりなんかすげーって話にもならない。

2015/12/07

地図が無い

深夜、ミルクを切らしていることを思い出して近くの24時間スーパーにカブ(二種原チャ)で行こうと思い立つ。
ミルクが切れているだけなら別に明日にすればいいのだけれど、イッペン深夜の車の少ない道路をチンタラ自分のペースで走ってみたろうかと。
たまには大阪のマナーの素晴らしい道路事情に苛つかされることなく運転するのもいいだろうと。

財布と鍵ばかりを持って家を出る。
スーパーでミルクと卵を買って家路に就く。
家のすぐ近くまで来て、もう少し深夜の道路を堪能してみようと思い立ち、家の前を素通りして、普段余り行かない全く地理を把握していない方面へ繰り出すことに。
私は方向感覚に関してはそこそこのもの(だと自分で思っている)なので、まあそうそう簡単に迷うこともないだろう、と。
ゆうても大阪ですし、適当に走ってもサイアクどこかには着くだろうと。

と適当に走っていたら10分もしないうちに道はくねくね曲がるし先細りになってくるしアップダウンは激しいしでソッコーで方向感覚を失う。
まあサイアク来た道を戻ればいいし、でも来た道戻るメソッドは最後の手段だな、などと思いながらそのまま走り続ける。
あとGoogle Mapとかあるし・・・ああっ!すぐ帰るつもりだったから財布と鍵しか持ってきてない!
自分が無意識的にGoogle Mapを当てにしていたことに思い至って急激に不安になる。

そして迷う。

既にかなりの時間、当てずっぽうに走っている。
迷い始めの最初の頃は大きい道路や線路に突き当たるようにできるだけ一定の方向へ走るようにしていたのだが、不安が大きくなるに連れできるだけ家から遠く離れてしまわないようにグルグル回る感じで走る。
看板など見てもなかなか知っている地名に出会わない。

まあガソリンは満タンだしどうしてもダメならコンビニで地図でも買えばいいしなどと思いながら走っていると、広域の地図が設置されているのを発見する。
今思ってもなぜそこに地図が要るのか、誰が見ることを想定してそこに設置されたのか判らないようなところにあったのだが、お陰で助かった。
地図を見るのは一寸ズルをしているような気分にならないではなかったが、そうも言ってられないのでカブを停めて近寄って見てみると、家は意外と遠くない。

地図で現在地と方向を確認して10分ぐらい走ってると、知ったところへ出る。
そこから更に5分ぐらい走って家に至る。

いやあ、帰ってこれたね。
2時間ぐらい迷ってた。

やっぱ初めてのとこへ行くならGoogle Mapか地図の類は要りますよね、という話。

2015/12/01

水木しげる

今日、しげーさんが死んだ。
昨日だったかも知れないが私には分からない。

フハッ!
なんとなしに私の方がどうせ先に死ぬもんだと思っていたが、先を越されてしまった。
ナンだカンだで取り敢えず100歳ぐらいは行くんだろうと思っていたのだけれど。

水木しげるの功績は、まあ戦争漫画だとか古典取材ものだとか色々あるが、矢張り妖怪についてのものが一番大きいだろう。
今日の日本の一般的な妖怪観を作ったのは大半は水木しげるの仕事に依っていると言っていいように思える。

今日妖怪の名で呼ばれているものの中には、恐らくは明治維新の神仏分離のドサクサで、スターリニズム的改竄の要領で、その土地で畏れ崇められていたモノについての物語が日本神道の神の名前の付いた物語にすげ替えられる際に余計な物語や属性が別の存在として切り離されたりして、物語的権威を失って忘れ去られつつあったものもあるだろう。維新って奴はホント文化に対して要らんことばっかするよな。
柳田國男辺りは一つにはそういうモノを掬い取ろうとしたんだろう。
或はよく言われるように「夜道を独り歩いていて一向に進んだ気がしない」みたいななんか怖い現象やその理由付けに名前が付いたものもあるだろう。
水木しげるはそういったモノの多くに姿を与えて、更に喋らせた。
妖怪に実体感と共に理性を与えた訳だ。
只法則性や属性に従うばかりの超然と在るモノではなく、触れることができて或程度は対話可能な存在として描いた。
「妖怪」という語が今日の妖怪観で以て使用されるような「妖怪」になったのは、この功績が大きいんじゃないかと私は思っている。

水木しげる無しにはその後の日本の文化は大きく変わっていたであろう。
少なくとも民俗学の人口は少なく裾野は今よりもっと狭かっただろう。
我々は今より更に自分達自身やその来歴を語る術を持たず無知であり、今より更にお手軽に、ワイドショーのコメンテーターが垂れ流すような戯言だの権力者の希望的観測だのに右往左往させられていたのだろう。
トトロも京極夏彦も(少なくとも今のようには)無かっただろうし。
妖怪は単に馬鹿げたものかモンスター的存在かであったかも知れない。
吸血鬼萌えとかまず無いぜ?
もしかしたら「聖☆おにいさん」とかが許容される土壌になるのにもっと時間が掛かったかも知れないし、イェイツ的ケルト物語や北欧神話が或程度日本で受け入れられるのも、ファイナルファンタジーだけでなく、多分水木しげるの作った土壌あってこそなんじゃないかね。
「妖怪」という語にくっ付いてくる色々な物の捉え方や発想がその後の日本の文化の形成に意外な程大きく連鎖的でサブリミナル的な影響を与えているように思われる。

水木しげるには私も直接間接を問わずすげー影響を受けてる。
多分音楽で言うとツェッペリンぐらい、文学では芥川ぐらい。
私は彼らの作った土壌の上に歩いているのだと自分でハッキリ自覚できるぐらい。
彼についてきちんと語るには私の人生は余りに短過ぎる。

そうか。死んでしまったか。

日本の仏教では仏になると言い、神道では神になると言う。
シゲリストはじゃあベタな感じはするけれど、妖怪になるとでも言おうか。天国は南国な。
私が死んだら妖怪になったと思って呉れ給え。

あ、フライング・スパゲッティ・モンスター教徒はどうしようか。
素麺ぐらいにしとこうか。
オーメンがソーメンになる・・・フフ。