近頃は怪談モノばかり読んでいる気がする。
そういやホラーとかゾンビはあんまし好きという訳じゃないんよな。
まあ伊藤潤二は好きだけれど。然し何故か楳図かずおはそうでもない。
或は胸糞悪い系とかグロテスクもイマイチピンと来ない。
積極的に嫌いという訳じゃないけれど、特に好きという訳でもない。
オーパーツとかUMAとかのムー的オカルトは割と嫌いじゃないし、妖怪は大好き。
水木しげるは言うまでもないにしても、諸星大二郎の妖怪ハンターとか星野之宣の宗像教授とかの民俗学風推理風冒険譚とかも好物。
或は推理小説なら横溝正史とか京極夏彦とか三津田信三とか。
この辺りのものに関して、私の好きなものとそうでもないものとの間の差異は恐らく、民俗学フレーバーの有る無しに拠る所が結構あるという気がする。
因みにスーパーナチュラル系は、少なくともそれが自分で信じているか信じていないか自覚的に判断可能な範囲においては、全く信じていない。
哲学的態度としては私は自然主義的/物理的実在論者ではないのだけれど、普段の生活レベルでは多くの場合で物理的実在論者が振る舞うように振る舞っている。
然し例えば私は幽霊なるものが物理的実在性を持って実在しているとは全く思わないが、だからと言って幽霊が見えると主張する人が全て明確な自覚を以て嘘をついているとは考えていない。
彼ら彼女らの幾らかには幽霊なるものが「見えて」いると考えて、或は虚偽の報告をする意図を全く持たずに「幽霊が見える」と報告しているのだという前提を置いて、「幽霊が見える」という記述や現象や事態を歴史的、社会学的、民俗学的、文学的、物理環境的、心理学的、生理学的にアレコレ想像したり解釈したりするのは面白い。
或は単に自覚的な虚偽の報告であったとして、その虚偽の報告を彼乃至彼女にさせた要因について色々と思いを巡らせるのも楽しい。
或はハードSFとして捉えたりね。
少しも信じてはいないけれど、結構好きなのだ。
で、最近怪談が好いという話。
古典的な四谷怪談とか或は都市伝説系もまあ嫌いじゃないんだけれど、まあ主に実話系ですな。
新耳袋系。
新耳袋というと、妖怪ハンターとか三津田信三とは違った風の民俗学フレーバーが感じられて素敵。
人から聞き集めた話を、予断や解釈が余り多く含まれないようにした文芸的自然主義風味に、然し怪談として、よく纏めてある。
怪談といってもあんまし怖い感じはしないんだけれど、それが好いんだろうな。
つうことで、新耳袋以降の実話系怪談を幾らか見繕って読んでみているのだけれど、未だコレというものを見つけられていない。
怖さの特色は色々と種類がありそうなんだけれど、怖さに関しては多分、私はそんなに重要ではないんだろうなあ。
私にとっては、一つには、読者である私が解釈する感じのが面白いんだろう。
多分、例えばおどろおどろしいのは好きだけれどズバリ怖いというのは別に、という感じなのか。
恐らくおどろおどろしさと怖さは別のカテゴリーで、広い意味での「怖さ」の中には「おどろおどろしさ」は含まれるんだろうけれど、怪談的怖さと怪談的おどろおどろしさは別扱いした方がいいのだろう。
ズバリの「怖さ」として表現してしまう手前の状態で留めてある感じがいいのか。
事実認識へコミットメントを良い具合に減らした記述が面白いのか。
2013/08/14
新耳袋
そろそろお盆。
てことで、只管怪談を読み続ける。
取り敢えず新耳袋(全十巻)を中古であるだけ買ってきて、端から読んでいってる。
十巻揃っておらず虫食いだけど、新耳袋はそれぞれの巻毎にまあ一話当たり大体2ページ分程の分量の怪談99話を一冊にまとめたもので、巻の順番に意味は無さそうなんで、虫食いでも大丈夫。
普段とは趣を変えて、怪現象を不思議無しで説明する「夏彦ごっこ」をしようとする自分を可能な限り分離して、できるだけ「怖い」話としても読むように心掛けている。
暫くそうしていると、普段の生活でもものごとを怖がろうとしたり普段どうとも感じないような出来事を怪現象として認識したがっていたりする自分を発見して面白い。
私の住んでる家は古くてよく家鳴りがするのだけれど、これを無理矢理ラップ音みたいに捉えてみて怖がろうとしたりとか。
消灯した洗面所の蓋の空いた洗濯機の中がふと視界に入ったとき洗濯機の中から何かがこちらを覗いてるのが視えたら怖いだろう、とか。
そこで「ゴブラァてめー!」っつって覗いてる奴の鼻の穴に指を突っ込んで引き上げるような想像をしてしまいがちだけど、それは駄目。ちゃんと怖がってる自分を想像しないと。
或は何故覗かれたら怖いと感じるのかについて理に適った考察へと向かいたがる自分は切り離す。
あれな、手とか目とかが怖いんだよな。足とか鼻とかじゃあんま怖くないのは何故・・・おっと不可ない。
あ、あと私の頭の悪いのは、私の行動力の無いのは、私の人生のつまらないのは、そいつはもうなんか霊とかの仕業に決まっているのです!
そら霊じゃしょうがない。もうあいつら。ホント困ったもんですよ・・・。
と、そのときは私も半笑いで言っていたりしたものでした・・・。
2013/06/06
翻訳不確定性
万年筆の黒インクをデスクペンとかつけペンで色々試してみてたんだが、色とか粘りとか、やっぱLAMYのが一番好みに合ってそう。
でも乾燥が遅いし擦れにも弱いんだよな・・・。
色々試しまくった所為で、手がインクだらけ。
-----
或ハードコアなSF小説の翻訳を読んでるんだけど、翻訳間違いっぽいとことか訳語の選択が不適切っぽいものとかが散見されてすげー読み難い。
日本語としては通ってるんだけど文脈的にはおかしいとか。
なんかサイエンス方面に明るくなく文才もイマイチな人が翻訳してる感じ。
専門書とかで明らかな門外漢が翻訳してるヤツとかすげー読み難いのがあるけど、あんな感じ。
SFを翻訳するなら、専門書を翻訳するのでなくても、或程度は科学の知識も要るよな・・・ハードコアなSFの場合は特に。
原書読めっちゅう話だけど、私は外国語がとてもダメなのです。
でも乾燥が遅いし擦れにも弱いんだよな・・・。
色々試しまくった所為で、手がインクだらけ。
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或ハードコアなSF小説の翻訳を読んでるんだけど、翻訳間違いっぽいとことか訳語の選択が不適切っぽいものとかが散見されてすげー読み難い。
日本語としては通ってるんだけど文脈的にはおかしいとか。
なんかサイエンス方面に明るくなく文才もイマイチな人が翻訳してる感じ。
専門書とかで明らかな門外漢が翻訳してるヤツとかすげー読み難いのがあるけど、あんな感じ。
SFを翻訳するなら、専門書を翻訳するのでなくても、或程度は科学の知識も要るよな・・・ハードコアなSFの場合は特に。
原書読めっちゅう話だけど、私は外国語がとてもダメなのです。
2012/07/11
お口直し推理小説
私は普段そんなには推理小説を読まないんだけど、以前読んだお手軽な推理モノの内容がとても拙くてイラリときたので、ちゃんとしたのを読んでお口直しするぜ計画。
適当に、なんとなくちゃんとしてそうなのを探す。
綾辻行人のをチョイス。
名前ぐらいは知ってたし。
「あ」で始まるので、本屋の本棚を端から見たときに最初に目に付いた知ってる名前ってのもある。
綾辻行人は中学か高校の頃にタイトルは忘れたけど何か読んだことがあったのだが、そのとき読んだのはイマイチだった記憶がある。
然しまあ、どう悪かったか覚えてないし、たまたまそれが悪かっただけかも知れないし、時間が経って私の感性も随分と変化してるだろうから、もういっぺん読んでもいいかな、と。
余り長くないヤツでタイトルから推察して推理モノの本道から道を外してなさそうな感じのヤツを適当に買う。
タイトルは・・・書かない方がいいかね。
色々ぼかして書かないとな・・・。
犯人は左大臣。
まあ嘘ですけど。
多分綾辻行人の小説で犯人が左大臣である小説は無いと思うけど、あったらごめん。
じゃあ凶器はパスタで。鼻からペペロンチーノ。動機はパスタのもつれとかそんな感じで。トリックはフライングスパゲッティモンスターのみぞ知る。ミートボールの部分が怪しい。
で、ぱっと読んでみた感じ。
日本語はちゃんとしていて割と手堅くて解り易い文章。いいね。
おかしい感じがするところはトリック。ちゃんとしている。
トリックも、トリッキー過ぎてそりゃないぜ屎尿るってこともない。
解決編より前までで得られる情報から想像し得る他の可能性の全てを否定できる訳ではないが、トリックのどれをとっても少なくとも大きく妥当性を欠いてるということはない。
ってことで、推理するのを楽しむにはいいかも。
人物描写も余り深くは描かないようにしている感じで、純粋に推理を楽しむことに特化している感じかね。
個人的な好悪を言うなら、まあイマイチなんだけど、然しこれはこれでたまには読んでもいいと思える。
多分私、そんなには推理小説が好きじゃないんだろうな。
ってことで、また今度拙い推理モノを読んでしまったときにでも。お口直しに。
2011/10/24
旧ルーガルー
オウケイオウケイ、ルーガルーの古い方(→Amazon
)、読み直し終わったぜ。
大分忘れてた。
話の筋とか重要な部分は読み直し始めてすぐ思い出したけど、細かい部分は結構忘れてた。
登場人物の名前とか全然覚えてなかったし。
「アレ、こいつ死ぬヤツやっけ?」
私は人の名前を覚えられないので読んでる最中にも忘れるけどな!
まあそんな感じで、思っていたよりは楽しんで読めた。
もっと沢山覚えてたら退屈だっただろうけど。
前に読んだ時に比べて、物語上の出来事とか登場人物の台詞とかから受ける印象が余り変化していないように思える。
前に読んだ時と比べて、私の知的な進歩が余り無いということなんだろう。
てか多分退化している。
私の脳なー。
アレどうかしてんだぜ。
年々モノが考えられなくなっている。
まあ頭使って生きてないからな。
私は漫画版の方も過去に目を通しているのだが、その所為で小説を読みながら脳内再生される映像が漫画版の絵柄の感じになってしまう。
まあ別に悪いことではないんだけど。
少なくとも私の持っている徳間書店版の表紙の、80年代の近未来みたいな甚だ不格好なのが頭の中で動くより大分良い筈だ。
アレはねえよ。
服装とかは徳間書店版の表紙のより漫画版の方がまだ理に適った想像だと思う。
まあ漫画版もあんまし覚えてないけどな!
あと、アレな、アイツって「百鬼夜行(→Amazon
)」に出てたアイツな、「出奔した」のヤツな、と思い至って確認しようと私の書架から「百鬼夜行」を探したのだけれど何故か見つからなかった。
どこ遣ったかね・・・。
あの鬼の話は結構印象に残ってるんだ。
このテの話で「鬼」と言うと、大抵「平地の民に対する山の民」だとか「まつろわぬ民」だとかがどうの、という過去に視点を置いた説明になりがちなんだけど、ここでは慥か「普通の人間は倫理観に拠る制限とか身体能力の制限とか色々制限があって、その制限の中に在ることが人間を人間として認識できるようにすることに一役買っているのだが、その制限の枠組を逸脱した者、普通の人間にはそれらの制限の所為でできないことになっていることを、(妄執とかに拠って)やってのけてしまう者を「鬼」と謂うのだ」的な、現在に視点を置いた説明になっていて、それが興味深かった。
私の記憶が正しければ。
まあどちらにせよ、「普通の人間」と捉え得る範囲を逸脱した者、という感じか。
そういや「鬼」って結局ヒトなのね。
他の妖怪だとか怪物だとかとは違って、人間と地続きの概念なのね。
てことで、やっと新しいルーガルーの方に取り掛かれる。
大分忘れてた。
話の筋とか重要な部分は読み直し始めてすぐ思い出したけど、細かい部分は結構忘れてた。
登場人物の名前とか全然覚えてなかったし。
「アレ、こいつ死ぬヤツやっけ?」
私は人の名前を覚えられないので読んでる最中にも忘れるけどな!
まあそんな感じで、思っていたよりは楽しんで読めた。
もっと沢山覚えてたら退屈だっただろうけど。
前に読んだ時に比べて、物語上の出来事とか登場人物の台詞とかから受ける印象が余り変化していないように思える。
前に読んだ時と比べて、私の知的な進歩が余り無いということなんだろう。
てか多分退化している。
私の脳なー。
アレどうかしてんだぜ。
年々モノが考えられなくなっている。
まあ頭使って生きてないからな。
私は漫画版の方も過去に目を通しているのだが、その所為で小説を読みながら脳内再生される映像が漫画版の絵柄の感じになってしまう。
まあ別に悪いことではないんだけど。
少なくとも私の持っている徳間書店版の表紙の、80年代の近未来みたいな甚だ不格好なのが頭の中で動くより大分良い筈だ。
アレはねえよ。
服装とかは徳間書店版の表紙のより漫画版の方がまだ理に適った想像だと思う。
まあ漫画版もあんまし覚えてないけどな!
あと、アレな、アイツって「百鬼夜行(→Amazon
どこ遣ったかね・・・。
あの鬼の話は結構印象に残ってるんだ。
このテの話で「鬼」と言うと、大抵「平地の民に対する山の民」だとか「まつろわぬ民」だとかがどうの、という過去に視点を置いた説明になりがちなんだけど、ここでは慥か「普通の人間は倫理観に拠る制限とか身体能力の制限とか色々制限があって、その制限の中に在ることが人間を人間として認識できるようにすることに一役買っているのだが、その制限の枠組を逸脱した者、普通の人間にはそれらの制限の所為でできないことになっていることを、(妄執とかに拠って)やってのけてしまう者を「鬼」と謂うのだ」的な、現在に視点を置いた説明になっていて、それが興味深かった。
私の記憶が正しければ。
まあどちらにせよ、「普通の人間」と捉え得る範囲を逸脱した者、という感じか。
そういや「鬼」って結局ヒトなのね。
他の妖怪だとか怪物だとかとは違って、人間と地続きの概念なのね。
てことで、やっと新しいルーガルーの方に取り掛かれる。
2011/04/26
翻訳の悪スペシャリスト
古本で買った哲学史を読んでるんだが、翻訳が死ぬ程悪くて苦労している。
内容は良いんだけど・・・。
所々日本語がおかしかったりするし、恐らく翻訳間違いだろうという部分もかなりの数ある。
翻訳者が書かれている内容を理解せずに翻訳しているような翻訳。
読点がおかしなところに付いてるし、語順もわざと理解し難くしているかのようだ。
私は駄目な翻訳に関しては一寸した者なので(悪い意味で)、悪い翻訳がどのようにして為されるのかについて想像することは私にとって難しいことではないし、目ざといのです。
これは・・・学生にやらせてロクにチェックもせず出稿したな・・・。
内容は良いんだけど・・・。
所々日本語がおかしかったりするし、恐らく翻訳間違いだろうという部分もかなりの数ある。
翻訳者が書かれている内容を理解せずに翻訳しているような翻訳。
読点がおかしなところに付いてるし、語順もわざと理解し難くしているかのようだ。
私は駄目な翻訳に関しては一寸した者なので(悪い意味で)、悪い翻訳がどのようにして為されるのかについて想像することは私にとって難しいことではないし、目ざといのです。
これは・・・学生にやらせてロクにチェックもせず出稿したな・・・。
2011/04/20
古本
最近メッキリ本を読まなくなったのだが、たまたま目に付いたクーンをペラペラ読み返してたら向精神薬が効き過ぎたみたいに頭が良くなったような気分になったので、久し振りにちゃんと本が読みたくなった。
家に未だ最後まで読んでない本が結構あるのだが、そんなことは忘れることにして、古本屋へGO。
買っただけで読んだ気になることでお馴染みの。
家から歩いて数分のところに割と確っかりした古本屋がある。
てゆうか私の家の周りはその古本屋ぐらいしかない。
菊屋か古本屋ぐらい。
気の利いた喫茶店とかイカスケーキ屋とかも無い。
メイドばば様の居ないシーサイドみたいな喫茶店ならあるけど・・・入り難いことこの上ない。
あ、何故か美容院は死ぬ程ある(が、私の行きつけは違う場所)。
で、古本屋。
ブックオフ的なところでなく、落ち着いて本を選べるような古本屋。
茶煤けた全集とかハードカバー系が多く、見てるだけで満足できる。
ハードカバーが一冊大体500円ぐらいで手に入るので、新品なら欲しくてもまあ買うことはないだろう、というような本も買ってしまう。
美術館のお土産コーナーで売ってそうな一寸した画集とかが100円だったりするし。
ツボに嵌れば良し。
哲学系も多少扱っていて、出会ってしまうと買うしかなくなる。
たとえそれがギリシャ哲学の断片集だったとしてもな!(300円也)
何故かウィトゲンシュタイン関係の本が結構沢山あった。
ウィトゲンシュタインの解説とか、ウィトゲンシュタインの名前を使ってあることないこと言うヤツとか。
危ねえなあ。
こんなところにそんな本を置いてたら私の財布がヤバイでしょうが。
どうせなら全集の9巻を置いてて欲しかったんだけど。
とうことで、なんだかんだで結構沢山買ってくる。
全部読むのか?
家に未だ最後まで読んでない本が結構あるのだが、そんなことは忘れることにして、古本屋へGO。
買っただけで読んだ気になることでお馴染みの。
家から歩いて数分のところに割と確っかりした古本屋がある。
てゆうか私の家の周りはその古本屋ぐらいしかない。
菊屋か古本屋ぐらい。
気の利いた喫茶店とかイカスケーキ屋とかも無い。
メイドばば様の居ないシーサイドみたいな喫茶店ならあるけど・・・入り難いことこの上ない。
あ、何故か美容院は死ぬ程ある(が、私の行きつけは違う場所)。
で、古本屋。
ブックオフ的なところでなく、落ち着いて本を選べるような古本屋。
茶煤けた全集とかハードカバー系が多く、見てるだけで満足できる。
ハードカバーが一冊大体500円ぐらいで手に入るので、新品なら欲しくてもまあ買うことはないだろう、というような本も買ってしまう。
美術館のお土産コーナーで売ってそうな一寸した画集とかが100円だったりするし。
ツボに嵌れば良し。
哲学系も多少扱っていて、出会ってしまうと買うしかなくなる。
たとえそれがギリシャ哲学の断片集だったとしてもな!(300円也)
何故かウィトゲンシュタイン関係の本が結構沢山あった。
ウィトゲンシュタインの解説とか、ウィトゲンシュタインの名前を使ってあることないこと言うヤツとか。
危ねえなあ。
こんなところにそんな本を置いてたら私の財布がヤバイでしょうが。
どうせなら全集の9巻を置いてて欲しかったんだけど。
とうことで、なんだかんだで結構沢山買ってくる。
全部読むのか?
2010/01/20
2008/12/24
ウンコな議論
ああ、いつも通り、フランクファートはあんまり関係無いですが。
真面目な本にどうしようもない乱暴な議論があると読むのが苦しくなる。
或事柄についての何種類かの議論を、宛も一人の人が言っている一つの議論であるかのように扱って、それをねじれているだの矛盾してるだのと言って非難するのを主題としているような本を読むと、苦しくて死にたくなる。
窓から放り出されて地面に叩き付けられるのは、私か本か。
例えば「最近の若者は・・・と考えている」だとか「新自由主義の批判者は・・・と言う」だとか、まあ「ポストモダン」でも「プラグマチスト」でも何でもいいのだけれど、そういうふうに言うときの「・・・」の部分に複数の議論を混ぜこぜにして、それでその後それに対する自分の反論を展開する訳だ。
そしてその「若者」やら「新自由主義の批判者」やらはその件について全員まるっきり間違っていてその中の誰も何一つ正しいことを言っていないかのように扱われる。
二つの全く立場の違う議論を一つの議論であるかのゆに扱えば、そりゃ矛盾して見えることもあるさ。
そのどこが間違っていてそこまでが受け入れ可能なのかというような議論をしないで済ましていたりするので、こういう乱暴な一般化に、書いてて気付かないのだろう。
喩えばチョムスキーとかローティではなくてカタカナで書かれるような最初から駄目なものとして定義されている「サヨク」を批判することで(ああ、論点先取の罪も犯している)、左翼思想全体を批判したことにしているようなものだ。
フロイトの夢判断がビミョウだからと言って「無意識」の功績を無視してフロイト全体或は精神分析の全てが間違っているかのように言ったり。
或は近代的な「人間」という概念を支えているものの一部が機能不全になったり間違っていることが判ったということ即ち「人間」という概念全体が死んだと言うのと同じようなものだ。
ここでは間違った一般化が当たり前のように行われている!
こういう間違った一般化によって、弱いものを一寸潰しただけで、強大なものや影響力のあるものに立ち向かって勝ったぞと誇らしげに言うことができるようになる訳だ。
或はトカゲをドラゴンと呼んで踏みつぶしているようなものだ。
一見して矛盾しているのが判るような阿呆っぽい議論に反論するのは簡単なので、余り深く考えずとも本が一冊書けるというスンポーだ。
哀れなドンキホーテ。
一般化というのは、議論を解り易くしたり、或は議論を永遠に続けるのを避けつつどこかで結論を出す為には、確かに必要な作業だ。
然しこの作業で間違うと、殆どの場合その議論は空虚なものとなる。
結論や主張が支持できる支持できない以前の問題になってしまう。
自分が何を批判しているのかはっきりさせておくことは重要だ。
またどういうことが最近の議論の的となっているのかも一応知っておきたいところだ。
という訳で、最近発売された新書の中で、日本の最近の社会学系だとか思想系の(と思われる)本を、幾つか適当に見繕って買ってきて読んでるのだが。
外ればかり引いて、稔りの期待できない苦行となっている。
真面目な本にどうしようもない乱暴な議論があると読むのが苦しくなる。
或事柄についての何種類かの議論を、宛も一人の人が言っている一つの議論であるかのように扱って、それをねじれているだの矛盾してるだのと言って非難するのを主題としているような本を読むと、苦しくて死にたくなる。
窓から放り出されて地面に叩き付けられるのは、私か本か。
例えば「最近の若者は・・・と考えている」だとか「新自由主義の批判者は・・・と言う」だとか、まあ「ポストモダン」でも「プラグマチスト」でも何でもいいのだけれど、そういうふうに言うときの「・・・」の部分に複数の議論を混ぜこぜにして、それでその後それに対する自分の反論を展開する訳だ。
そしてその「若者」やら「新自由主義の批判者」やらはその件について全員まるっきり間違っていてその中の誰も何一つ正しいことを言っていないかのように扱われる。
二つの全く立場の違う議論を一つの議論であるかのゆに扱えば、そりゃ矛盾して見えることもあるさ。
そのどこが間違っていてそこまでが受け入れ可能なのかというような議論をしないで済ましていたりするので、こういう乱暴な一般化に、書いてて気付かないのだろう。
喩えばチョムスキーとかローティではなくてカタカナで書かれるような最初から駄目なものとして定義されている「サヨク」を批判することで(ああ、論点先取の罪も犯している)、左翼思想全体を批判したことにしているようなものだ。
フロイトの夢判断がビミョウだからと言って「無意識」の功績を無視してフロイト全体或は精神分析の全てが間違っているかのように言ったり。
或は近代的な「人間」という概念を支えているものの一部が機能不全になったり間違っていることが判ったということ即ち「人間」という概念全体が死んだと言うのと同じようなものだ。
ここでは間違った一般化が当たり前のように行われている!
こういう間違った一般化によって、弱いものを一寸潰しただけで、強大なものや影響力のあるものに立ち向かって勝ったぞと誇らしげに言うことができるようになる訳だ。
或はトカゲをドラゴンと呼んで踏みつぶしているようなものだ。
一見して矛盾しているのが判るような阿呆っぽい議論に反論するのは簡単なので、余り深く考えずとも本が一冊書けるというスンポーだ。
哀れなドンキホーテ。
一般化というのは、議論を解り易くしたり、或は議論を永遠に続けるのを避けつつどこかで結論を出す為には、確かに必要な作業だ。
然しこの作業で間違うと、殆どの場合その議論は空虚なものとなる。
結論や主張が支持できる支持できない以前の問題になってしまう。
自分が何を批判しているのかはっきりさせておくことは重要だ。
またどういうことが最近の議論の的となっているのかも一応知っておきたいところだ。
という訳で、最近発売された新書の中で、日本の最近の社会学系だとか思想系の(と思われる)本を、幾つか適当に見繕って買ってきて読んでるのだが。
外ればかり引いて、稔りの期待できない苦行となっている。
2008/07/23
デカルト劇場
「デカルトの密室」(→Amazon
)読み終えた。
なんつーかな・・・。
文系攻殻機動隊、という感じか。
あ、あと師匠から貰ったデカルトの研究書をちゃんと読もうと思った。
以下苦言その他は「続きを読む」で。
余りネタバレしないように気をつけてぼかして書こう・・・。
思想的には、一見デネットの「解明される意識」(→Amazon
)辺りを下地にしているように見える。
それを小説仕様に曖昧にぼかした感じ。
でも伝家の宝刀「志向的スタンス」は出てこないし(まあ出てくれば問題が余りにあっけなく解消されてしまうので小説にならないだろうが)、「多元的草稿モデル」っぽいものは出てくるが違うし、「物語的重力の中心としての自己」らしいものも出てくるがよく見ると違うし。
私の思い込みかも知れない。
まあこの辺り「自己」とか「心身問題」とか「物理法則と人間の自由との関係」とか私の学生時代の専門分野の一つだった訳で、まあそれなりに語れることもあろう。
で、最後の方に「物語的重力の中心としての自己」の代わりに、構造主義の流れを汲むポストモダンの「物語論」っぽいのが出てくる感じ。
而も、「超越論的統覚の物語版」とか「「私」物語の生成装置としての「私」」とかというよりは寧ろ、語られた物語そのものが自己であるとして、更に生物学的自己とかの「自己」の他の記述の仕方を拒絶する感じの、サルトルを連想させるようなかなりラディカルなやつだ。
まあこの種の「物語論」は私もあんまり勉強しなかったので教科書程度以上のことは能く解らんが、普通この種の「物語論」はもう一寸緩やかなものだったと思う。
因みにあと「物語論」と言うと、倫理と相性の良い、より「社会」とか「歴史」というような視点を大事にする種類のものも哲学の議論には存在する。
これは結構面白い。
あとはまあ、臨床系の心理学の、社会構成主義の流れを汲む「ナラティブセラピー」とかもあるねえ。
これの「物語論」は似てるようでそれぞれ一寸ずつ違うので、興味のある人は比べてみたり統合してみたりすると面白いと思う。
で、その「物語論」から「自由」を抽出しようとしているのだが、これにまるっきり失敗しているのに宛も成功したかのような感じで終わるので、読者は何だか能く解らず頭がホワホワしたまま置いてけぼりを喰う感じ。
あと「どうして人を殺してはならないのか」とか「何故そのルールを守らなければいけないのか」とかの問題に対して非常に短絡的で危険な考えが、それらの問いへの解答として提示されていて、それで良しとされている。
こういう感じで、この小説の最後の方は怒濤の迷走っぷりだ。
広げた風呂敷を畳むそぶりを見せて畳まず、畳んだつもりになって終わってしまった。
がっかりした。
結局何だか判らないまま、事実を事実として淡々と受け入れさせて終わってしまった感じだ。
あと不自然でおかしなところも色々ある。
例えばカードの実験とか。
反応速度の違いが余りに不自然だし、それを社会性の問題に帰すのは物語の設定上おかしい。
あと「中国語の部屋」の「量の問題」とか。
処理スピードの問題を、単に量の問題を解決するだけでは(まあ或程度緩和はできるにせよ)解決できないのは明らかだし、若し量を増やすことを選ぶなら、一つ一つのノードはシリコンチップではなく人間であることに注目すべきだし、あとノード間のネットワークを適切な仕方で構築する必要がある点とか、それぞれのノードは全体が何をしているのか知らなくても良いという点にも注目すべきだ。
こういったことをこの物語の主人公である優秀なAI設計者が気付いていないとは一寸考え難い。
・・・とか色々。
帯に「心という永遠の謎に迫る」とか「文芸の境界を軽々と乗り越えた小説」とあったので、「新しい概念が文学の側から提示される瞬間が観れるんじゃないか」とか「文学が哲学や一般的に受け入れられいている諸概念をひっくり返す瞬間が観れるんじゃないか」と期待したが、そうでもなかった。
そういう意味では文芸作品とか、或は普通に哲学書読んだ方が役立つ。
初めは「心の哲学に興味を持った哲学の大学一回生とかが入門書代わりに読んだらいいんじゃね?」と思ったが、やっぱ普通に新書の良いやつとか、少し頑張ってデネットとか読んだ方がいいだろう。
デネットは読むのに5倍の時間がかかるだろうけど(解り易いけど兎に角量が多いので。あと値段が高い)、読めばものになるし(中には私のようにあんまりものにならない人間も居るが)、反対するにしても反論のし甲斐がある。
「デネットは、「物語的重力の中心としての自己」の議論においては「自己」の社会側からの圧力の影響をもっと強調すべきだ」とか。面白いんじゃね?
詰めが甘い感じで読後感がふやけている。
まあ所詮はエンタテインメントとしての「推理小説」だったか。
少なくとも「心という永遠の謎に迫る」ような書物として読むべきではないことが判った。
然し「ロボットが心を持ち得る」ということが指し示さんとするところの具体的な像を描いたことは評価できる・・・んじゃないかと思う。
まあ真面目なヒューマノイド小説の半分はそうなんだが。
あと半分は攻殻機動隊で謂う「ゴースト」が邪魔をする。
なんつーかな・・・。
文系攻殻機動隊、という感じか。
あ、あと師匠から貰ったデカルトの研究書をちゃんと読もうと思った。
以下苦言その他は「続きを読む」で。
余りネタバレしないように気をつけてぼかして書こう・・・。
思想的には、一見デネットの「解明される意識」(→Amazon
それを小説仕様に曖昧にぼかした感じ。
でも伝家の宝刀「志向的スタンス」は出てこないし(まあ出てくれば問題が余りにあっけなく解消されてしまうので小説にならないだろうが)、「多元的草稿モデル」っぽいものは出てくるが違うし、「物語的重力の中心としての自己」らしいものも出てくるがよく見ると違うし。
私の思い込みかも知れない。
まあこの辺り「自己」とか「心身問題」とか「物理法則と人間の自由との関係」とか私の学生時代の専門分野の一つだった訳で、まあそれなりに語れることもあろう。
で、最後の方に「物語的重力の中心としての自己」の代わりに、構造主義の流れを汲むポストモダンの「物語論」っぽいのが出てくる感じ。
而も、「超越論的統覚の物語版」とか「「私」物語の生成装置としての「私」」とかというよりは寧ろ、語られた物語そのものが自己であるとして、更に生物学的自己とかの「自己」の他の記述の仕方を拒絶する感じの、サルトルを連想させるようなかなりラディカルなやつだ。
まあこの種の「物語論」は私もあんまり勉強しなかったので教科書程度以上のことは能く解らんが、普通この種の「物語論」はもう一寸緩やかなものだったと思う。
因みにあと「物語論」と言うと、倫理と相性の良い、より「社会」とか「歴史」というような視点を大事にする種類のものも哲学の議論には存在する。
これは結構面白い。
あとはまあ、臨床系の心理学の、社会構成主義の流れを汲む「ナラティブセラピー」とかもあるねえ。
これの「物語論」は似てるようでそれぞれ一寸ずつ違うので、興味のある人は比べてみたり統合してみたりすると面白いと思う。
で、その「物語論」から「自由」を抽出しようとしているのだが、これにまるっきり失敗しているのに宛も成功したかのような感じで終わるので、読者は何だか能く解らず頭がホワホワしたまま置いてけぼりを喰う感じ。
あと「どうして人を殺してはならないのか」とか「何故そのルールを守らなければいけないのか」とかの問題に対して非常に短絡的で危険な考えが、それらの問いへの解答として提示されていて、それで良しとされている。
こういう感じで、この小説の最後の方は怒濤の迷走っぷりだ。
広げた風呂敷を畳むそぶりを見せて畳まず、畳んだつもりになって終わってしまった。
がっかりした。
結局何だか判らないまま、事実を事実として淡々と受け入れさせて終わってしまった感じだ。
あと不自然でおかしなところも色々ある。
例えばカードの実験とか。
反応速度の違いが余りに不自然だし、それを社会性の問題に帰すのは物語の設定上おかしい。
あと「中国語の部屋」の「量の問題」とか。
処理スピードの問題を、単に量の問題を解決するだけでは(まあ或程度緩和はできるにせよ)解決できないのは明らかだし、若し量を増やすことを選ぶなら、一つ一つのノードはシリコンチップではなく人間であることに注目すべきだし、あとノード間のネットワークを適切な仕方で構築する必要がある点とか、それぞれのノードは全体が何をしているのか知らなくても良いという点にも注目すべきだ。
こういったことをこの物語の主人公である優秀なAI設計者が気付いていないとは一寸考え難い。
・・・とか色々。
帯に「心という永遠の謎に迫る」とか「文芸の境界を軽々と乗り越えた小説」とあったので、「新しい概念が文学の側から提示される瞬間が観れるんじゃないか」とか「文学が哲学や一般的に受け入れられいている諸概念をひっくり返す瞬間が観れるんじゃないか」と期待したが、そうでもなかった。
そういう意味では文芸作品とか、或は普通に哲学書読んだ方が役立つ。
初めは「心の哲学に興味を持った哲学の大学一回生とかが入門書代わりに読んだらいいんじゃね?」と思ったが、やっぱ普通に新書の良いやつとか、少し頑張ってデネットとか読んだ方がいいだろう。
デネットは読むのに5倍の時間がかかるだろうけど(解り易いけど兎に角量が多いので。あと値段が高い)、読めばものになるし(中には私のようにあんまりものにならない人間も居るが)、反対するにしても反論のし甲斐がある。
「デネットは、「物語的重力の中心としての自己」の議論においては「自己」の社会側からの圧力の影響をもっと強調すべきだ」とか。面白いんじゃね?
詰めが甘い感じで読後感がふやけている。
まあ所詮はエンタテインメントとしての「推理小説」だったか。
少なくとも「心という永遠の謎に迫る」ような書物として読むべきではないことが判った。
然し「ロボットが心を持ち得る」ということが指し示さんとするところの具体的な像を描いたことは評価できる・・・んじゃないかと思う。
まあ真面目なヒューマノイド小説の半分はそうなんだが。
あと半分は攻殻機動隊で謂う「ゴースト」が邪魔をする。
2007/04/20
コミュニタリアニズム
じゃあ最近ぺらっと読んだ本の中で紹介するに足ると思った本の話でも。

日本を甦らせる政治思想 菊池理夫
「リベラルコミュニタリアニズム」について簡単に解説してある本。
これで日本がどこかから蘇るかは議論の余地があるが、兎も角議論するに値する。
まあオタクブームと重なって今頃流行ってる「ポストモダン好き」達の主張についてあれこれ言うことを考えると特に。
私はどっちかというとリベラル寄りなのでガチガチののコミュニタリアニズムは採らないが、然しコミュニタリアニズムにはそこそこ興味はあるし、実際私の政治についての考えについて重要な殆どの部分はコミュニタリアニズムと大して変わらない。
但私は、例えば或個人がどのコミュニティに所属しているのか、そしてどのコミュニティの物語を受け入れているのか、ということについては、コミュニタリアン達が考えるよりももっと多重的な仕方で様々の所属し得るし実際そうしていると考えるし、従って、自分の属するコミュニティのメンバー達が当たり前に受け入れている或信念が受け入れ難く間違った信念だと考えたときには、そのコミュニティのメンバー達を説得することも重要だが、そのコミュニティから離脱することを決めたときにはコミュニタリアン達が考えるよりももう少し少ないコストで済ませられる思う。
それから私はコミュニタリアン達と同じく当たり前に受け入れられている或は受け入れられるべき善や悪(特に民主主義にまつわる善悪)を結構強調するが、然し、公的には打ち遣って置いてもそれ程問題にならないだろうと想定されるような種類の差異や、公的に重要な差異ではあるがその差異を保ったままでも共存や連帯が可能となるかも知れないという可能性を残している差異について、私はコミュニタリアン達よりも強調する。と思う、多分。
因みに我々の共通の論敵はネオリベラリズムや差異ばっかり強調して勝手に絶望してるような「ポストモダン好き」の相対主義者達、という訳だ(何度も言うが、これは本物のポストモダンの時代の思想家達が悪かったのではない)。
簡単に言うと我々と論敵との差異は「まともな民主主義」という実現可能な理想や希望を持っているか否か、という点にある。
この本の著者も反リベラルのガチガチのコミュニタリアニズムというよりは、コミュニタリアニズムとリベラルとの共存を可能にする道を、コミュニタリアニズムの視点から探る、といったスタンスを採っているように見える。
まあ私は、少なくとも上記の理由で、彼とは違ってよりリベラル寄りなんだが、まあそれでも彼と私は結構近いところに居ると思う。
なんか最近読む本読む本みんな「ポストモダン好き」一色だったんで、少々ゲンナリしてたところだったのだが、久しぶりにまあまあ近い立場の本を読んで、一寸は深いレベルで自分の考えを検めることができた。
が、この本の欠点は、テイラーとかマッキンタイアとかエツィオーニとか出てくるのだけれど、その重要な思想的背景についての議論も解説も殆ど無かったんで、彼らを知らない人はその上っ面の部分だけしか分からないんじゃないかと思うし、それじゃあ彼らの魅力はあんまり伝わらないんじゃないだろうかと思う。
勿論上っ面の部分だけでも或程度魅力はあるけれど、この本を読むだけならその限定的な魅力が彼らの魅力の全体であるかのように見えるだろうから、読む人が「テイラーそれ程面白くねえ」と思うかも知れないのが一寸悔しい。
まあ私が哲学出身(もう「出身」を付けなければならないのが悲しい)だから思想的背景に興味がより強いだけなのかねえ。
でもかなり重要だと思うんだけどなあ。
最初の方に一寸コミュニタリアニズムの簡単な解説があるんだけど、その後読み進めればより詳しい解説が出てくるのだろうと思ってたら殆ど出てこなくて、こりゃイカンのじゃないかと思いました。
ポストモダン好きとかネオリベラリズムとかに苦言を呈するのは飽きる程繰り返し出てくるんだけど、それを削っていいから、もっと詳しく思想的背景についての解説をするべきだ。
という訳で、或程度コミュニタリアニズムについての基礎知識を持っていないと、著者の主張はなんとなく理解はできてもその主張の魅力やその主張を支えている思想の魅力を理解できないんじゃないかと思うので、コミュニタリアニズムの入門書としては余り良くないかも知れない。
日本語ならエツィオーニとかを読んだ方が入門としてはいいだろう。まあそっちの方が直段は高いけど。
これは内容は平易で理解し易いが、特に深い議論がある訳ではないので、既に入門して了った人が読んでもそれ程重大な収穫は期待できなさそうだ。
深いところの議論が無いのがイカン。
うぉ、なんか今デジャブが!
すげー!
デジャブを感じてるところまでデジャブだ!
え?私、永劫回帰してる?と思える程。
Dioの血に関係が?
本の話に関係ないけど。
で、話を戻すと。
この本のメリットは新書の嵩張らなさ安さとお手軽さかねえ。
という感じです。
まあ読んでも悪いということはないと思う。
それなりに為になるし、結構面白く読める。
まだ色々言いたいことはあるが、デジャブも体験したことだし、明日早いのでもう寝ます。
日本を甦らせる政治思想 菊池理夫
「リベラルコミュニタリアニズム」について簡単に解説してある本。
これで日本がどこかから蘇るかは議論の余地があるが、兎も角議論するに値する。
まあオタクブームと重なって今頃流行ってる「ポストモダン好き」達の主張についてあれこれ言うことを考えると特に。
私はどっちかというとリベラル寄りなのでガチガチののコミュニタリアニズムは採らないが、然しコミュニタリアニズムにはそこそこ興味はあるし、実際私の政治についての考えについて重要な殆どの部分はコミュニタリアニズムと大して変わらない。
但私は、例えば或個人がどのコミュニティに所属しているのか、そしてどのコミュニティの物語を受け入れているのか、ということについては、コミュニタリアン達が考えるよりももっと多重的な仕方で様々の所属し得るし実際そうしていると考えるし、従って、自分の属するコミュニティのメンバー達が当たり前に受け入れている或信念が受け入れ難く間違った信念だと考えたときには、そのコミュニティのメンバー達を説得することも重要だが、そのコミュニティから離脱することを決めたときにはコミュニタリアン達が考えるよりももう少し少ないコストで済ませられる思う。
それから私はコミュニタリアン達と同じく当たり前に受け入れられている或は受け入れられるべき善や悪(特に民主主義にまつわる善悪)を結構強調するが、然し、公的には打ち遣って置いてもそれ程問題にならないだろうと想定されるような種類の差異や、公的に重要な差異ではあるがその差異を保ったままでも共存や連帯が可能となるかも知れないという可能性を残している差異について、私はコミュニタリアン達よりも強調する。と思う、多分。
因みに我々の共通の論敵はネオリベラリズムや差異ばっかり強調して勝手に絶望してるような「ポストモダン好き」の相対主義者達、という訳だ(何度も言うが、これは本物のポストモダンの時代の思想家達が悪かったのではない)。
簡単に言うと我々と論敵との差異は「まともな民主主義」という実現可能な理想や希望を持っているか否か、という点にある。
この本の著者も反リベラルのガチガチのコミュニタリアニズムというよりは、コミュニタリアニズムとリベラルとの共存を可能にする道を、コミュニタリアニズムの視点から探る、といったスタンスを採っているように見える。
まあ私は、少なくとも上記の理由で、彼とは違ってよりリベラル寄りなんだが、まあそれでも彼と私は結構近いところに居ると思う。
なんか最近読む本読む本みんな「ポストモダン好き」一色だったんで、少々ゲンナリしてたところだったのだが、久しぶりにまあまあ近い立場の本を読んで、一寸は深いレベルで自分の考えを検めることができた。
が、この本の欠点は、テイラーとかマッキンタイアとかエツィオーニとか出てくるのだけれど、その重要な思想的背景についての議論も解説も殆ど無かったんで、彼らを知らない人はその上っ面の部分だけしか分からないんじゃないかと思うし、それじゃあ彼らの魅力はあんまり伝わらないんじゃないだろうかと思う。
勿論上っ面の部分だけでも或程度魅力はあるけれど、この本を読むだけならその限定的な魅力が彼らの魅力の全体であるかのように見えるだろうから、読む人が「テイラーそれ程面白くねえ」と思うかも知れないのが一寸悔しい。
まあ私が哲学出身(もう「出身」を付けなければならないのが悲しい)だから思想的背景に興味がより強いだけなのかねえ。
でもかなり重要だと思うんだけどなあ。
最初の方に一寸コミュニタリアニズムの簡単な解説があるんだけど、その後読み進めればより詳しい解説が出てくるのだろうと思ってたら殆ど出てこなくて、こりゃイカンのじゃないかと思いました。
ポストモダン好きとかネオリベラリズムとかに苦言を呈するのは飽きる程繰り返し出てくるんだけど、それを削っていいから、もっと詳しく思想的背景についての解説をするべきだ。
という訳で、或程度コミュニタリアニズムについての基礎知識を持っていないと、著者の主張はなんとなく理解はできてもその主張の魅力やその主張を支えている思想の魅力を理解できないんじゃないかと思うので、コミュニタリアニズムの入門書としては余り良くないかも知れない。
日本語ならエツィオーニとかを読んだ方が入門としてはいいだろう。まあそっちの方が直段は高いけど。
これは内容は平易で理解し易いが、特に深い議論がある訳ではないので、既に入門して了った人が読んでもそれ程重大な収穫は期待できなさそうだ。
深いところの議論が無いのがイカン。
うぉ、なんか今デジャブが!
すげー!
デジャブを感じてるところまでデジャブだ!
え?私、永劫回帰してる?と思える程。
Dioの血に関係が?
本の話に関係ないけど。
で、話を戻すと。
この本のメリットは新書の嵩張らなさ安さとお手軽さかねえ。
という感じです。
まあ読んでも悪いということはないと思う。
それなりに為になるし、結構面白く読める。
まだ色々言いたいことはあるが、デジャブも体験したことだし、明日早いのでもう寝ます。
2007/03/29
全集
全集というのは、アマゾンでまとめて買おうとするからいつまで経っても買えないのだ。
本屋の店舗に寄って何か買う序でに全集の中から一冊買う、というようにすれば、一気に財布が寂しい感じにならずに済む。
結局は全部揃えるのだから、最終的に費やす資金は同額ではあるが、そっちのほうが心が落ち着く。
早速、色々漫画など買う序でに芥川の全集をひとつ買って、今後も少しづつ買い揃えていくことに。
フルカラー漫画雑誌のrobotも創刊号だけ買って、イマイチだったのでその後買い控えていたが、冬目景とかも描くようになって、最近、一寸続きを揃えてみたくなった。
もう八つも出てるので、一冊2000円として、あと14000円も注ぎ込まなければならない計算になるが、これも一冊ずつ買えば、と思ったが、やっぱ漫画一冊2000円というのは、幾らフルカラーとはいえ、少々手を出し難いものである。
本屋の店舗に寄って何か買う序でに全集の中から一冊買う、というようにすれば、一気に財布が寂しい感じにならずに済む。
結局は全部揃えるのだから、最終的に費やす資金は同額ではあるが、そっちのほうが心が落ち着く。
早速、色々漫画など買う序でに芥川の全集をひとつ買って、今後も少しづつ買い揃えていくことに。
フルカラー漫画雑誌のrobotも創刊号だけ買って、イマイチだったのでその後買い控えていたが、冬目景とかも描くようになって、最近、一寸続きを揃えてみたくなった。
もう八つも出てるので、一冊2000円として、あと14000円も注ぎ込まなければならない計算になるが、これも一冊ずつ買えば、と思ったが、やっぱ漫画一冊2000円というのは、幾らフルカラーとはいえ、少々手を出し難いものである。
2007/02/26
『音楽の基礎』
では本の話でもしよう。
今日の一冊。
『音楽の基礎
』。芥川也寸志。

1971年の夏に第一刷が発行されている、まあまあ古い本。
71年頃というと、クラシックの流れの音楽では、作曲家がその担い手として主役であった「作曲家」の時代が本格的に終焉を迎えて「指揮者」の時代へと変わって了ったという頃かなあ。
この変化はもっと以前から始まってたのだけれど、71年というと、これがすっかり変わって了った、という頃なんじゃないかねえ。
まあ私はあんまりその辺の歴史には詳しくないので、間違ってるかも知れん。
まあいい。
兎も角35年前。
で、本の内容。
音の関係や規則について、その成立の歴史やそれについての著者の解釈など交えて書かれている。
西洋クラシックに基礎を置きながら、古楽や60年代までの「現代音楽」や民族音楽や電子音楽や雅楽といったところにまで言及がある。
彼の独自の解釈が出ていたり彼自身の議論をしているところは、情報量が少なくて少々危なっかしいが、それ以外の事実を書き連ねているところは読む価値はあると思う。
まあそもそも彼の独自の見解を表明する為の本ではなさそうなので、そこのところは、まあそんな考え方もあるか、という程度に捉えておけばいいのかも知れない。
が、その独自の見解そのものには、私自身幾らか共感を覚えなくもないし、それなりに説得力はある。
特に音楽の専門的な教育を殆ど受けていないが一応基礎的なことぐらいは知っておきたいというようなポップ音楽の担い手達は、まあ読み易いし、一回読んどくことを勧める。
学校の音楽の教科書以上にまともなことが書かれていない上に視野の狭い「ポップの作曲法」みたいな本を読むよりはずっと為になるだろう。
とはいえ、この本は一般向けの本なので、勿論一般の音楽好きの人達が読んでも十分面白いだろう。
但しこういった本を今までにも沢山読んできた人には、大して新しい知識を増やさないかも知れない。
専門的なものとしての「音楽」の入門書ではあるが、音楽のバリバリの専門書という訳ではない。
入門書なので、恐らくは学校の音楽の教科書が理解できるぐらいの知識があれば、この本も簡単に理解することができるだろう。
つまり音楽に興味を持っている人なら、大体誰にでも解るようには書いてあると思う。
全体的には、よくできた本だと思う。
71年の本だけど、当時の空気を知るというよりは、この2007年にも入門書として十分に有用だろう。
今日の一冊。
『音楽の基礎
1971年の夏に第一刷が発行されている、まあまあ古い本。
71年頃というと、クラシックの流れの音楽では、作曲家がその担い手として主役であった「作曲家」の時代が本格的に終焉を迎えて「指揮者」の時代へと変わって了ったという頃かなあ。
この変化はもっと以前から始まってたのだけれど、71年というと、これがすっかり変わって了った、という頃なんじゃないかねえ。
まあ私はあんまりその辺の歴史には詳しくないので、間違ってるかも知れん。
まあいい。
兎も角35年前。
で、本の内容。
音の関係や規則について、その成立の歴史やそれについての著者の解釈など交えて書かれている。
西洋クラシックに基礎を置きながら、古楽や60年代までの「現代音楽」や民族音楽や電子音楽や雅楽といったところにまで言及がある。
彼の独自の解釈が出ていたり彼自身の議論をしているところは、情報量が少なくて少々危なっかしいが、それ以外の事実を書き連ねているところは読む価値はあると思う。
まあそもそも彼の独自の見解を表明する為の本ではなさそうなので、そこのところは、まあそんな考え方もあるか、という程度に捉えておけばいいのかも知れない。
が、その独自の見解そのものには、私自身幾らか共感を覚えなくもないし、それなりに説得力はある。
特に音楽の専門的な教育を殆ど受けていないが一応基礎的なことぐらいは知っておきたいというようなポップ音楽の担い手達は、まあ読み易いし、一回読んどくことを勧める。
学校の音楽の教科書以上にまともなことが書かれていない上に視野の狭い「ポップの作曲法」みたいな本を読むよりはずっと為になるだろう。
とはいえ、この本は一般向けの本なので、勿論一般の音楽好きの人達が読んでも十分面白いだろう。
但しこういった本を今までにも沢山読んできた人には、大して新しい知識を増やさないかも知れない。
専門的なものとしての「音楽」の入門書ではあるが、音楽のバリバリの専門書という訳ではない。
入門書なので、恐らくは学校の音楽の教科書が理解できるぐらいの知識があれば、この本も簡単に理解することができるだろう。
つまり音楽に興味を持っている人なら、大体誰にでも解るようには書いてあると思う。
全体的には、よくできた本だと思う。
71年の本だけど、当時の空気を知るというよりは、この2007年にも入門書として十分に有用だろう。
2006/06/18
放送禁止歌
森達也ってのは、なかなか面白いものを書く。
アマゾンさんに「『A
』とか『ご臨終メディア
』結構良いんじゃねーかと思うんだけど」って言ったら、森達也の本をガンガン勧めてきたので、その勧めに従って、一寸読んでみた。
『放送禁止歌
』。
主な主張は、『ご臨終メディア』で為されていることと大体同じで、物凄く短く要約すると、「報道すべき事実を報道するよりもクレームが来ないことを重要視して、意味不明な自己規制なんかしてるようなしょんぼりテレビがこれほどまでにしょんぼりなのは、番組制作に関わっている人間が考えることを放棄している所為だ」というような話。
どうして考えることを放棄するようになったのかについては余り興味はないようで、その分析は分量も少なくイマイチピンと来ないのだけれども(そして私はそのことについて彼の意見をちゃんと知りたいと思っているのだけれど)、然し兎も角現状はそうなのだということとその背景がよく解るように書かれている。
で、この本では、「放送禁止歌の規則の実態を暴くドキュメンタリーを作る・・・つもりだったが実際には放送禁止歌には実体のない規則だった・・・こいつは一体どういうことだ?」ということを出発点としている。
放送に関わる人間が表現の自由についてまともなことは何も考えていないなんて、これ以上無いくらいゲンナリだ。
そんなにも無思考がイケてるのだろうか。
「書を捨てて街に出よう」ってのは書をよく読む人に対して言うときのみまともな意味を成す言葉なのだよ。
然しどうも、何か考えいるとは到底言えない人に対して「考えたってしょうがない」みたいなことを酒も呑まずにギャグでもなく平気で言うような世の中に私は今居るのだという実感を拭い去ることが出来ないで居る。
私が普通に口を開けば「うるさ型」とか言われるんだろうなあ。
唯自分が考えないことを可とするだけでなく、自分の意見を持っていたり主張したりする人間は、ダサいだけでなくなんかアブナい人のように扱う。
気持ち悪い、くっさい世の中だと思う。
まあそんな感じで。
書くべきことはまだ色々あるけど、もう眠いので寝ます。
我芸術家也。
おバカな人達に放送禁止の烙印を押されることが出来るような、意味のある、美しい歌を描こうと思った。
我自由を謳う芸術家也。
この本を読んで、頑張ろう、と思った。
アマゾンさんに「『A
『放送禁止歌
主な主張は、『ご臨終メディア』で為されていることと大体同じで、物凄く短く要約すると、「報道すべき事実を報道するよりもクレームが来ないことを重要視して、意味不明な自己規制なんかしてるようなしょんぼりテレビがこれほどまでにしょんぼりなのは、番組制作に関わっている人間が考えることを放棄している所為だ」というような話。
どうして考えることを放棄するようになったのかについては余り興味はないようで、その分析は分量も少なくイマイチピンと来ないのだけれども(そして私はそのことについて彼の意見をちゃんと知りたいと思っているのだけれど)、然し兎も角現状はそうなのだということとその背景がよく解るように書かれている。
で、この本では、「放送禁止歌の規則の実態を暴くドキュメンタリーを作る・・・つもりだったが実際には放送禁止歌には実体のない規則だった・・・こいつは一体どういうことだ?」ということを出発点としている。
放送に関わる人間が表現の自由についてまともなことは何も考えていないなんて、これ以上無いくらいゲンナリだ。
そんなにも無思考がイケてるのだろうか。
「書を捨てて街に出よう」ってのは書をよく読む人に対して言うときのみまともな意味を成す言葉なのだよ。
然しどうも、何か考えいるとは到底言えない人に対して「考えたってしょうがない」みたいなことを酒も呑まずにギャグでもなく平気で言うような世の中に私は今居るのだという実感を拭い去ることが出来ないで居る。
私が普通に口を開けば「うるさ型」とか言われるんだろうなあ。
唯自分が考えないことを可とするだけでなく、自分の意見を持っていたり主張したりする人間は、ダサいだけでなくなんかアブナい人のように扱う。
気持ち悪い、くっさい世の中だと思う。
まあそんな感じで。
書くべきことはまだ色々あるけど、もう眠いので寝ます。
我芸術家也。
おバカな人達に放送禁止の烙印を押されることが出来るような、意味のある、美しい歌を描こうと思った。
我自由を謳う芸術家也。
この本を読んで、頑張ろう、と思った。
2006/04/28
2006/01/31
返品、美術史、漫画論
やっちまった。
GNX-1。中古。安かったのでつい。
而もなんと不良品。
あいたたた。
明日返品してきます。
くっそー、すっげー重かったのに。
それから本とか漫画とか買ってくる。
漫玉とか。
ドニディドロの『絵画について』とか。
サイードの『ペンと剣』とか。
ユリイカの2006年1月のとか。
漫玉は、こんな素的漫画買うしかないとして。
ディドロは何となく。
ペラペラ見てると、ディドロの時代ってラファエロとかレンブラントとかもうおったんや、ということを知った。
ディドロって、もっと古い時代の人と何となく思っていた。
あー、でもラファエロとか結構昔やもんな・・・。
私はその辺の時代感覚が少々弱くて。
音楽との関係とかなってくると、もっとヤバなる。
音楽が発達したのは意外と最近になってからやもんな。
それに比べて、絵画が一気に発達した時期ってのは、早い。
因みに哲学史は、カントの辺りとスコラ哲学の辺りがヤバい。
矢っ張り高校で年号を覚なかったのが不可なかった。
やっときゃよかった歴史。因みに私は社会は地理でした。楽だったから。
サイードは題名に惚れて。
この題名でなければ買ってなかった。
直球。
内容は、インタビュー。読み易いかな、と。
ユリイカは漫画批判。
この前の発表のあとの宴で漫画の話が出たのだけれど、それはこういう話だったのか。
世界を広げて呉れる非常に有意義な内容のものが幾つかあった。
ほう、こういう世界認識の仕方があったか、思い付かなかった、みたいな。
アマゾン→桜玉吉 『御緩漫玉日記』
アマゾン→ディドロ 『絵画について』
アマゾン→エドワード・サイード 『ペンと剣』
アマゾン→ユリイカ 2006年1月号 特集 マンガ批評の最前線
GNX-1。中古。安かったのでつい。
而もなんと不良品。
あいたたた。
明日返品してきます。
くっそー、すっげー重かったのに。
それから本とか漫画とか買ってくる。
漫玉とか。
ドニディドロの『絵画について』とか。
サイードの『ペンと剣』とか。
ユリイカの2006年1月のとか。
漫玉は、こんな素的漫画買うしかないとして。
ディドロは何となく。
ペラペラ見てると、ディドロの時代ってラファエロとかレンブラントとかもうおったんや、ということを知った。
ディドロって、もっと古い時代の人と何となく思っていた。
あー、でもラファエロとか結構昔やもんな・・・。
私はその辺の時代感覚が少々弱くて。
音楽との関係とかなってくると、もっとヤバなる。
音楽が発達したのは意外と最近になってからやもんな。
それに比べて、絵画が一気に発達した時期ってのは、早い。
因みに哲学史は、カントの辺りとスコラ哲学の辺りがヤバい。
矢っ張り高校で年号を覚なかったのが不可なかった。
やっときゃよかった歴史。因みに私は社会は地理でした。楽だったから。
サイードは題名に惚れて。
この題名でなければ買ってなかった。
直球。
内容は、インタビュー。読み易いかな、と。
ユリイカは漫画批判。
この前の発表のあとの宴で漫画の話が出たのだけれど、それはこういう話だったのか。
世界を広げて呉れる非常に有意義な内容のものが幾つかあった。
ほう、こういう世界認識の仕方があったか、思い付かなかった、みたいな。
アマゾン→桜玉吉 『御緩漫玉日記』
アマゾン→ディドロ 『絵画について』
アマゾン→エドワード・サイード 『ペンと剣』
アマゾン→ユリイカ 2006年1月号 特集 マンガ批評の最前線
2005/11/29
ルートヴィヒな一日
このブログの左右の書籍に関する紹介の記事、最近読んだものの紹介というスタンスではなく、本当に私が好いと思っているものだけを特選で書くようにした。
左右の記事の更新頻度から考えると、その方が適切だと思ったから。
因みに画像をクリックするとアマゾンの商品ページへ行って、そこからアマゾンで買えるようにしてあるので。
で、誰かがアマゾンで商品を購入したら、アマゾンから私に、ようやった、と報酬が支払われるというスンポーで。
ジュンク堂をぶらついていたら、スーパー胸キュンなものを見つけてしまった。
『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』!
結構でっかい本なのに2000円!買うしか!
因みに訳は『ウィトゲンシュタインはこう考えた』の鬼界彰夫。
ウィトゲンシュタイン哲学の解釈者というよりは只のウィトゲンシュタインファンである私は、『反哲学的断章』も持っていて、例えば「ブルックナーは映画に合うけどブラームスは合わない」みたいな記述を見つけてそうだろうそうだろう能く心得ていらっしゃると、哲学に余り関係ないところでニヤニヤしたもんだが。
この『哲学宗教日記』は1993年に新たに発見された、1930-1932年と1936-1937年の日記の翻訳+αだそうである。
ペラッと見てみたところ、全体の半分のページ数が日記本体に充てられ、残りの2/3が非常に有用で丁寧な注(哲学的には、日記本体よりこの注の方が役に立つかも知れない)、その残りが訳者の解説となっている。
ヤバいな。時間あんまり無いのに読んじまいそうだ。
序でに、テイラーの本が売ってあり、テイラーはそのうちチェックしないとと思っていたので、余り所持金に余裕がない中で、思わず買ってしまう。
ローティがこの本の帯でえらい賞めていた。
因みに帰りに電車の中で一寸読んだが、未だ彼を評価出来るようなところまで見えていない。
まあ八割ローティニアンの私は、彼が賞めてるようなものについて、矢っ張り好いな、と思う可能性も高いんだろうけど。別にローティに無理して抗う理由もないし。無理して迎合する必要も感じないが。
それからクーリエジャポンも買ってみたが、あれ、期待したよりは、予想通り、良くなかったが、別に読むに値しないよ、とは言えない程度には読めた。期待と予想は別のものであるというところを見落とさないこと。
各国の記事の翻訳を載せているのだが、その国のメジャー処を集めているという感じで。ワシントンポストとか。タイムズとか。そういったクラスの記事を集めているので、まあ分かり切ったことだったのかも知れないが、私が欲しいバリバリのジャーナリズムに基づく情報は見受けられなかった。それに、当然のことながら、何を載せるかについてはクーリエジャポンの編集に懸かっている訳だし。世界を知るというよりは、或は世界に支配的な傾向を知るというよりは、編集者が読者に世界についてどう認識させたいかが解る程度なのかも知れない。
これならロイター通信の方が役に立つ。而も只。
英語圏に関して言うと、インターネットの方が役に立つ情報は余っ程多い。
但し私は英語も微妙な上、他の言語はまるで駄目なので、英語圏以外の記事は一寸は役に立ったのかも知れない。勿論役に立ってないかも知れないが。
兎に角、編集に「アメリカだけが「世界」でしょうか」と言ったことで背負う期待に応えられるだけの信頼性や内容はあるのかという問いに対しては、まあ残念ながら全くちっとも微塵も、と答えられるが、では、この編集はほんの少しでも信頼に足るものなのかどうか、という点に関しては、微妙なところで、判断出来なかった。
別に判断するまでもなく、大した内容を持っていないのだから、どうでもいいと言えばどうでもいいのだが。
アマゾン→ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記―1930-1932/1936-1937
アマゾン→ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン 反哲学的断章―文化と価値
アマゾン→鬼界彰夫 ウィトゲンシュタインはこう考えた―哲学的思考の全軌跡1912‐1951
アマゾン→チャールズ・テイラー 「ほんもの」という倫理―近代とその不安
アマゾン→COURRiER Japon
左右の記事の更新頻度から考えると、その方が適切だと思ったから。
因みに画像をクリックするとアマゾンの商品ページへ行って、そこからアマゾンで買えるようにしてあるので。
で、誰かがアマゾンで商品を購入したら、アマゾンから私に、ようやった、と報酬が支払われるというスンポーで。
ジュンク堂をぶらついていたら、スーパー胸キュンなものを見つけてしまった。
『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』!
結構でっかい本なのに2000円!買うしか!
因みに訳は『ウィトゲンシュタインはこう考えた』の鬼界彰夫。
ウィトゲンシュタイン哲学の解釈者というよりは只のウィトゲンシュタインファンである私は、『反哲学的断章』も持っていて、例えば「ブルックナーは映画に合うけどブラームスは合わない」みたいな記述を見つけてそうだろうそうだろう能く心得ていらっしゃると、哲学に余り関係ないところでニヤニヤしたもんだが。
この『哲学宗教日記』は1993年に新たに発見された、1930-1932年と1936-1937年の日記の翻訳+αだそうである。
ペラッと見てみたところ、全体の半分のページ数が日記本体に充てられ、残りの2/3が非常に有用で丁寧な注(哲学的には、日記本体よりこの注の方が役に立つかも知れない)、その残りが訳者の解説となっている。
ヤバいな。時間あんまり無いのに読んじまいそうだ。
序でに、テイラーの本が売ってあり、テイラーはそのうちチェックしないとと思っていたので、余り所持金に余裕がない中で、思わず買ってしまう。
ローティがこの本の帯でえらい賞めていた。
因みに帰りに電車の中で一寸読んだが、未だ彼を評価出来るようなところまで見えていない。
まあ八割ローティニアンの私は、彼が賞めてるようなものについて、矢っ張り好いな、と思う可能性も高いんだろうけど。別にローティに無理して抗う理由もないし。無理して迎合する必要も感じないが。
それからクーリエジャポンも買ってみたが、あれ、期待したよりは、予想通り、良くなかったが、別に読むに値しないよ、とは言えない程度には読めた。期待と予想は別のものであるというところを見落とさないこと。
各国の記事の翻訳を載せているのだが、その国のメジャー処を集めているという感じで。ワシントンポストとか。タイムズとか。そういったクラスの記事を集めているので、まあ分かり切ったことだったのかも知れないが、私が欲しいバリバリのジャーナリズムに基づく情報は見受けられなかった。それに、当然のことながら、何を載せるかについてはクーリエジャポンの編集に懸かっている訳だし。世界を知るというよりは、或は世界に支配的な傾向を知るというよりは、編集者が読者に世界についてどう認識させたいかが解る程度なのかも知れない。
これならロイター通信の方が役に立つ。而も只。
英語圏に関して言うと、インターネットの方が役に立つ情報は余っ程多い。
但し私は英語も微妙な上、他の言語はまるで駄目なので、英語圏以外の記事は一寸は役に立ったのかも知れない。勿論役に立ってないかも知れないが。
兎に角、編集に「アメリカだけが「世界」でしょうか」と言ったことで背負う期待に応えられるだけの信頼性や内容はあるのかという問いに対しては、まあ残念ながら全くちっとも微塵も、と答えられるが、では、この編集はほんの少しでも信頼に足るものなのかどうか、という点に関しては、微妙なところで、判断出来なかった。
別に判断するまでもなく、大した内容を持っていないのだから、どうでもいいと言えばどうでもいいのだが。
アマゾン→ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記―1930-1932/1936-1937
アマゾン→ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン 反哲学的断章―文化と価値
アマゾン→鬼界彰夫 ウィトゲンシュタインはこう考えた―哲学的思考の全軌跡1912‐1951
アマゾン→チャールズ・テイラー 「ほんもの」という倫理―近代とその不安
アマゾン→COURRiER Japon
2005/11/09
ストリンドベリが欲しい話
BOOK OFF で本を買った。ハードカバー。
BOOK OFF で漫画やCDじゃなくて普通のハードカバーの本を買うことなど殆ど無いのだが、京極夏彦のとかあった(定価の半額で)し、村上春樹のと柳田邦男のが100円になってたので、一寸買ってみても良いかなという気になった。
因みに私が今読んでいるものの一つに「圀」の方の柳田圀男のがある。『遠野物語』。民俗学文学(?)の古典。
そういえば、ストリンドベリのとか何処かに売ってないかな。
昔、岩波文庫で出てたやつとか・・・。
アマゾン→京極夏彦 『豆腐小僧双六道中ふりだし』
アマゾン→京極夏彦 『ルー=ガルー ― 忌避すべき狼』
アマゾン→村上春樹 『スプートニクの恋人』
アマゾン→柳田邦男 『犠牲(サクリファイス)―わが息子・脳死の11日』
アマゾン→柳田圀男 『遠野物語―付・遠野物語拾遺』
BOOK OFF で漫画やCDじゃなくて普通のハードカバーの本を買うことなど殆ど無いのだが、京極夏彦のとかあった(定価の半額で)し、村上春樹のと柳田邦男のが100円になってたので、一寸買ってみても良いかなという気になった。
因みに私が今読んでいるものの一つに「圀」の方の柳田圀男のがある。『遠野物語』。民俗学文学(?)の古典。
そういえば、ストリンドベリのとか何処かに売ってないかな。
昔、岩波文庫で出てたやつとか・・・。
アマゾン→京極夏彦 『豆腐小僧双六道中ふりだし』
アマゾン→京極夏彦 『ルー=ガルー ― 忌避すべき狼』
アマゾン→村上春樹 『スプートニクの恋人』
アマゾン→柳田邦男 『犠牲(サクリファイス)―わが息子・脳死の11日』
アマゾン→柳田圀男 『遠野物語―付・遠野物語拾遺』
2005/11/06
陰摩羅鬼
「筋肉痛で動けず」の第二日。
本日の予定、本来なら大学の学園祭でも見に行き、序でに漫画でも買ってくる手筈になっていたのだが、筋肉痛が痛かったのと京極夏彦が面白過ぎて気が付いたら夜になっていた所為で、結局「学園祭行きます」という約束を反故にして了う。済まぬ。
まあ行ったところで、私の識らない人ばかりだろうし、イベント時のみ顔を出すような、よう識らん、何か「先輩」なる者が、のうのうと闖入することで場の和を乱すのは不本意だし、また場の和に悪い干渉を持たずにとけ込む自信もない、否、そもそもそんなこと恐れるまでもなく、私にはそんな存在感など無いのだから、居なくても・・・云々、と、言い訳になってない言い訳をしておきます。
京極堂シリーズ、面白いねー。
謎解き好きにはイマイチなんだろうけど。私は大分好きです。
段々、トリックに酔いしれッぽさ或は犯人当てクイズッぽさが無くなってきている。
私にとって、これはこれで好いこと。
因みに、今回は儒学をやるハイデガーなムイシュキン公爵みたいな元伯爵が出て来る話。
じゃあ京極堂はデリダ?
アマゾン→京極夏彦 『陰摩羅鬼の瑕』
本日の予定、本来なら大学の学園祭でも見に行き、序でに漫画でも買ってくる手筈になっていたのだが、筋肉痛が痛かったのと京極夏彦が面白過ぎて気が付いたら夜になっていた所為で、結局「学園祭行きます」という約束を反故にして了う。済まぬ。
まあ行ったところで、私の識らない人ばかりだろうし、イベント時のみ顔を出すような、よう識らん、何か「先輩」なる者が、のうのうと闖入することで場の和を乱すのは不本意だし、また場の和に悪い干渉を持たずにとけ込む自信もない、否、そもそもそんなこと恐れるまでもなく、私にはそんな存在感など無いのだから、居なくても・・・云々、と、言い訳になってない言い訳をしておきます。
京極堂シリーズ、面白いねー。
謎解き好きにはイマイチなんだろうけど。私は大分好きです。
段々、トリックに酔いしれッぽさ或は犯人当てクイズッぽさが無くなってきている。
私にとって、これはこれで好いこと。
因みに、今回は儒学をやるハイデガーなムイシュキン公爵みたいな元伯爵が出て来る話。
じゃあ京極堂はデリダ?
アマゾン→京極夏彦 『陰摩羅鬼の瑕』
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