2009/04/14

近頃の「暴力」遊び

思想家達やその周辺の間で流行ってるビミョウな言葉ってのがある訳だ。
例えばさあ、色々あるけど・・・。

少々古臭いかも知れないが、「暴力」ってのは、一般的な使用から見れば大分希釈された意味しか持っていないように思える。
それ系の本を読んでいて「暴力」という言葉が出てきても、「あー、ハイハイ、例の「暴力」ね」と、その言葉が一般的に持っていると想定されるインパクトから大分差し引いて、頭の中で鉤括弧を付けながら読まなければならないことが割と多いように思える。
そういう本においては、多分もう何でも「暴力」なんじゃねーかと思える。
人と人との総ゆる接触が「暴力」になるんじゃないかとさえ思える。
その所為で「暴力」という言葉が薄くなっている。

例えば、まあ今私が勝手に考えた例なんだが、例えば芸術ってのは、或側面から見れば、鑑賞者の人生観とか実際のライフスタイルとか鑑賞者にとってそう簡単には譲れないような領域にまでズカズカ踏み込んで行ってそれを壊したり置き換えたり書き加えたりというようなことを積極的にやってやろうというものだと言える(と私は思っている)ので、そういう側面から見ると或意味「暴力」性みたいなものを含んでいる訳だ。
然しその「暴力」性を暴き立てること(「暴き立てること」も括弧に入れていいかも知れない)で何がしたいのかがイマイチ明確でないのはなんだかつまらない。
「暴力」という言葉を使ってるんだから、多分それは不可ないことだと言いたいのだろうと思って読むんだけど、そのどこがどう不可なくてそれをどう正そうと提案しているのかについての記述が欠落していると、結局のところは何がしたいのか、解らなくなる。
たまに「それが「暴力」性を孕んでいる、ということを意識しておくことが重要だ」というようなことが書かれてたりするが、そりゃどこの説法だとツッコミたくなる。
恐らく、単なる苦し紛れでないとすれば、それを意識することでその意識した人の振る舞いが変化することが期待されているのだろうけど、どう変化することが期待されているのかが書かれていなければ、読者は著者の考えを評価することが非常に難しくなる。

或は議論の営みそのものや新しいライフスタイルにコミットしようとすることまで「暴力」性を孕んでるとか言われても、実際のところ、ハイさいですか、それで?ぐらいのことしか言えなくて困る。
今や「それって「暴力」性を孕んでいるよね、ヤッホーイ、暴いたぜ」と言うだけでは大して何も言っていないのと同じだという気になる。

まあ勿論鉤括弧の中に入れる必要の無い暴力で、未だ多くの人に意識されていない暴力もあるだろうから、それを指摘することはそれ自体でも有意味だと思うし、それはガンガンやって欲しいと思う。
が、その後の部分が欠けている場合、意味のある指摘と大して意味の無い暴露とを、その文体から区別することは難しい。
��因みに「指摘」と「暴露」の使い分けは、まああんまり意味は無いです。)

然し大して意味の無い方をつまらんと言って簡単に切って捨てるだけでは、それはそれでつまらない。
大して意味の無い方が有意味な方の文体に乗っかって自分を大きく見せようとしているのは確かに鼻につくかも知れない。
が、大して意味の無い方にもうひと突っ込みすることでそれを有意味にできる場合もあるだろう。
その拙い本の著者が暴き立てることで満足してしまった所から始めて、「それで?」への回答を自分で付け加えられる場合があるかも知れない。
というのは拙い本の著者にも、「暴力」という(少なくとも一般的にはインパクトの強い)語を使用していることを考えると、著者の書き落とした何かしらの問題意識があったと推測しても、まあよさそうだ。
その隠された問題意識みたいなものに探りを入れる・・・という名目で、テキトーな考えを当て嵌めたりして色々空想して遊ぶ、という遊びを考えた。
割と面白い。