簡単にできる筈の事態をややこしくしておくことは、フランス語で書かれたポストモダンが日本(或は他の国やフランス国内でも事情は大体同じらしいが)に輸入されておかしな具合に流行して以降、現在にかけて、元々希望も無いくせに絶望した振りをしていることでお馴染みの、「ポストモダン」気取りの無能な著作家達のおまんまの糧となっている。
能ある鷹は爪を隠すらしいが、毒の無い蛇が同じ地域に棲む毒蛇に酷似した模様をしていることもあるそうな。
宜しい、私も無能、ここは一つ乗ってみよう・・・。
ああ、因みに私は「本家」のデリダやらフーコーやらに対しては批判的な立場を採ってはいるが、彼らを「真面目な批判の対象」とするぐらいには、私は彼らには友好的な態度を採っていると思う(でもデリダはあんまり好きじゃない。できればあんまり関わり合いになりたくない)。
・・・。
無意識を意識化することはできる。
では無意識を意識することはできるのか。
「無意識を意識化する」と言うとき、意識は「無意識」をその対象としようとしているのだが、無意識を意識「化」する、というときには、それが無意識である時点と意識化された時点をくらべつると、意識化された時点の方が後にくる訳だ。
つまり意識に「化」という語をくっつけることによって、「意識化」は未来のことについて言及していることになる。
そういう訳で「無意識を意識化する」ということは、まあ可能だ。
或は少なくとも原理的に或は悟性の上で(?)不可能という訳ではなさそうだ。
同様に、「無意識を意識することができる」と言うとき、日本語の文法上、「意識することができる」はそれが「無意識」である時点から見て未来のことを言っている場合がある。
然し今回は、それが「無意識」である時点と「意識できる」時点は同時であるという風に考えよう。
これも日本語の文法上可能な解釈だ。
では、この場合、「無意識を意識することができる」は、何か矛盾しているように聞こえる。
無意識は意識された時点で「意識」になってしまうからだ。
従って、無意識を意識することはできない。
では次の場合はどうだろう。
我々の目の前で、箱を持った少年が、「この箱の中にはカブトムシが入っている、けれどもそれを確認する術は原理的に一つも無い」と言ったとしよう。
普通なら、「この少年が言ったようにその箱の中身を確認する術は原理的に一つもないということを本当だとして一旦受け入れた場合、この少年の「(その)箱の中にカブトムシが入っている」という命題(或は「信念」だとか「発話内容」だとか)は何か意味があるのか」とかなんとかということが議論の対象になる訳だ。
然し今回は、「この少年の持っている箱、その箱を、我々は普通意識することができるか」という風に問うてみよう。
どうか普通に、構えず、フツーに、考えてみて呉れ給え。
答えは普通、唐突な「哲学的」疑念が思い浮かんでしまったり何か障害を考えない限り、「Yes」となる筈だ。
我々は箱の中身の如何に拘わらず、少年の抱えた箱そのものについては、我々はそれを見るなり触るなりしてそれを認識し、意識上へ持ってくることができる。
まあ普通のことですな。
ではこの構造を前の「無意識を意識することができるか」という問題に当て嵌めてみよう。
「無意識」を「箱(ブラックボックス)」として考える訳だ。
そうすると、「無意識を意識することはできない」と考えるのは馬鹿らしく思えるかも知れない。
つまり「無意識の内容」については、その無意識を持っている個人が同時にそれを「意識」することは、「無意識」の語義上、不可能であるように思えるかも知れないが、「無意識」をなんだか能く解らないが自分自身には今現在意識されていない心の動きみたいなものとして考えると、その、今現在の「無意識」というブラックボックス言わば「外箱」について意識できないというのはおかしい。
例えば「私がいま然々と考えている或は振る舞っているのは、私の無意識下での出来事が何か関係しているに違いない」という風に考えることはできるし、このときその人は「無意識を意識している」と言えるのではないのか?
・・・というふうな言葉遊びを使って、何か推理小説のトリックでも作れないだろうかと風呂の中で空想して楽しむ。