ああ、いつも通り、フランクファートはあんまり関係無いですが。
真面目な本にどうしようもない乱暴な議論があると読むのが苦しくなる。
或事柄についての何種類かの議論を、宛も一人の人が言っている一つの議論であるかのように扱って、それをねじれているだの矛盾してるだのと言って非難するのを主題としているような本を読むと、苦しくて死にたくなる。
窓から放り出されて地面に叩き付けられるのは、私か本か。
例えば「最近の若者は・・・と考えている」だとか「新自由主義の批判者は・・・と言う」だとか、まあ「ポストモダン」でも「プラグマチスト」でも何でもいいのだけれど、そういうふうに言うときの「・・・」の部分に複数の議論を混ぜこぜにして、それでその後それに対する自分の反論を展開する訳だ。
そしてその「若者」やら「新自由主義の批判者」やらはその件について全員まるっきり間違っていてその中の誰も何一つ正しいことを言っていないかのように扱われる。
二つの全く立場の違う議論を一つの議論であるかのゆに扱えば、そりゃ矛盾して見えることもあるさ。
そのどこが間違っていてそこまでが受け入れ可能なのかというような議論をしないで済ましていたりするので、こういう乱暴な一般化に、書いてて気付かないのだろう。
喩えばチョムスキーとかローティではなくてカタカナで書かれるような最初から駄目なものとして定義されている「サヨク」を批判することで(ああ、論点先取の罪も犯している)、左翼思想全体を批判したことにしているようなものだ。
フロイトの夢判断がビミョウだからと言って「無意識」の功績を無視してフロイト全体或は精神分析の全てが間違っているかのように言ったり。
或は近代的な「人間」という概念を支えているものの一部が機能不全になったり間違っていることが判ったということ即ち「人間」という概念全体が死んだと言うのと同じようなものだ。
ここでは間違った一般化が当たり前のように行われている!
こういう間違った一般化によって、弱いものを一寸潰しただけで、強大なものや影響力のあるものに立ち向かって勝ったぞと誇らしげに言うことができるようになる訳だ。
或はトカゲをドラゴンと呼んで踏みつぶしているようなものだ。
一見して矛盾しているのが判るような阿呆っぽい議論に反論するのは簡単なので、余り深く考えずとも本が一冊書けるというスンポーだ。
哀れなドンキホーテ。
一般化というのは、議論を解り易くしたり、或は議論を永遠に続けるのを避けつつどこかで結論を出す為には、確かに必要な作業だ。
然しこの作業で間違うと、殆どの場合その議論は空虚なものとなる。
結論や主張が支持できる支持できない以前の問題になってしまう。
自分が何を批判しているのかはっきりさせておくことは重要だ。
またどういうことが最近の議論の的となっているのかも一応知っておきたいところだ。
という訳で、最近発売された新書の中で、日本の最近の社会学系だとか思想系の(と思われる)本を、幾つか適当に見繕って買ってきて読んでるのだが。
外ればかり引いて、稔りの期待できない苦行となっている。