2007/05/10

プラチナ

万年筆がまた欲しくなってきた。
プラチナ萬年筆の。
色々考えた結果、プラチナのがいいのだろう、というふうに、考えが変わってきた。
やっぱ硬い方が好い。
セーラーの柔らかいのも好いけど、硬い方が好い。
愛用のモールスキンのノートが、なんか結構紙質が安定しなくて、今使ってるのはインクの吸収が良過ぎるのです。
これだと、セーラーのではインクが出過ぎる。
私は字も尋常でなく汚いし、絵も下手だが、なんかこういうことに自分の好悪を明確に示すのが好きなのです。


弱肉強食という社会理論、つまり人と人との関係をライオンに喰われるシマウマという薄っぺらな自然誌観にから見た関係と同一視する理論、或は適者生存や適応主義という社会理論、つまり生物進化についての理論を理性や人権や正義や倫理抜きには語れない筈の人間社会に不適切にもそれら抜きで当て嵌めた理論、こういった「勝者の理論」に慣れ親しんだ経済的勝者がその勝者の理論を捨て去るのは多大な努力を必要とするように思える。
本当に自分の力で勝利を勝ち取った訳でもない勝者でさえ、意識的であれ無意識的であれ一度自らを勝者と位置付けてしまうと、その勝者の理論を捨て去るのは難しいのだろう。
間違った理論に基づいて振る舞うことで被る不名誉に同情を禁じ得ない。
不幸にもこういった奇妙な理論が見直される機会が少ないのは、一つには、日本の経済が幸運にも他の多くの国のよりも潤っているおかげであるかも知れない。
或は勿論他の原因もあるだろうが。

というようなことを漠然と感じる電車の中。
この中の人達の殆どは兎に角喰うには困っていないのだ。
一応は識字率も高くそれなりの教育環境の整っている日本において、貧困に喘ぐ人々への関心が薄く、そういったことが到底選挙における争点などには殆どなり得ないのは、こういったことが関係していなくもないんじゃないだろうか。
若し多くの日本人或は工業先進国の人達が、一度貧困に喘ぐ人の多く居る国の人達のことを、我々が人間として扱われるように真面目に人間として扱うべきだということに関心がいけば、上のような奇妙な理論が到底受け入れられるべきでないものであることは一目瞭然に解るだろうし、そうすれば世界は一寸はマシになるんじゃないかと思わなくもない。
我々の多くは幸運にも書いたり読んだりできるのだし、兎も角選挙における一票を持っているのだから。