阪急や南海の車窓からの景色と見分けのつかないような変わり映えしない日本の景色の中を新幹線が飛び、私はそういう新幹線の車窓から外を眺めている訳だ。
集落があれば、そこにはそれなりに沢山の人がいて、その人達は各々に経済活動などに従事している訳だ。
大きな道でも通れば、その道の両脇に結構な数の人間が生活している。
今視界に入っている町の人達は、その他の人達同様、各々の人生を、誰でも精一杯にとは言わないまでも、まあ兎も角少なくとも死なない程度にはそれなりに力を入れて、生活している筈である。
私は以前、ぼんやり眺めていた或街の一つのビルの中に、一つに視野に収まるようなビルの中に、普通の都会の一つのビルの中に、何十人か何百人か或は何千人かは知らないが、兎に角沢山の人の入っているのを意識に認識して、そしてその人達の各々一人一人が自分の感情だとか人生だとかを持っていることに意識が及んで、その頃、絶不況の日本、終身雇用の解体や能力主義が叫ばれていた日本の中の、(今と変わらず)浅はかで感化され易い若者であった私が、自ら採っていた実力主義や市場経済至上主義や個人主義を、私自身、丸ごと捨てなければならないことを理解した、ということがある(実際にそれらを捨てることができたのはそれから何年も経ってからであったが)。
福満しげゆき風に言うなら「みんな自分が主人公だと思っている。気が遠くなる。」、というような感覚や、或は幼き日の涼宮ハルヒ嬢の自らの私的な無力感に繋げた感覚が、私ではどういう訳か自らの公的な主義の放棄に繋がった訳だ。
つまり、まあ、そういうことだ。
車窓から見える風景からその町に住む人々の生活について、どこに人が集まるのかだとか、移動手段はどうとか、どこで働いているのだとか、どこに買い物に行くのだとか、散歩すべき道はあるのかだとか、想像するのは楽しい、という話。
或は電車というものは、いつも次のことを私に痛感させる。
私の哲学は人を愛しているし、そうすべきだということを理解している。
然し私の脊椎は、人間を嫌悪している。
脊椎反射を意識によって抑制するのは、非常に大きな努力が必要である。