「著作権」という言葉自体が今や私にとって吐き気を催すものとなりつつあるようだ。
少なくとも芥川の大正の時代には、著作権は待ち焦がれられた存在であった。
が、今や著作権は、著作者にとってさえ有用なものなのかどうか疑問に思えてしまうようなものになってしまったのだろうか。
私は著作権という概念全体を丸ごと捨て去るべきだとは全く思わないしし、寧ろ著作権は非常に重要で必要不可欠なものだと思うが、それでも最近の著作権周りの記事を見ていると、私は酷く憂鬱になって、さっさとこの世からおさらばしたくなる程だ。まあ実際におさらばするのは一寸待って欲しい。そのうちほっといても数十年以内にはおさらばするので、私におさらばして欲しい人は、まあ気を長くして待っていてください。
或は憂鬱の余り、議会による漸進的改革やよりまともな民主主義という希望ではなく、暴力的革命や哲人王による統治なんていう、冷静になれば私自身到底受け入れられないようなものでも、「まあそれでもいいか」と思ってしまいそうになる。
例えば↓
・ネット上にデータを保存するサービスはすべて著作権侵害で違法です(GIGAZINE)
・音楽データのストレージサービスは著作権侵害、利用主体はユーザーではなく提供会社に(CNET Japan)
・個人用ネットストレージサービスは著作権侵害との判決(Slashdot Japan)
・JASRACのプレスリリース
とか見ていると。
司法よ、お前もか。
JASRACさんの怒りどころがイマイチ能くわからんので、プレスリリースの題名を引用するのにさえおっかなびっくりな訳です。
キレたら手が付けられない。
ああ、昔学校にそういうややこしい教員がいっぱい居たなあ。
なんであの人達は・・・。まあその話はいいや。
オウケイ、我々市民の為すべきことは、著作権全体を全て投げ捨てることではない。これは一応確認しておこう。
我々の為すべきことは、著作権を、限られた一部の利権団体の為ではなく、著作者や著作物の流通に携わる人や著作物の享受者等々といった我々全体にとって有益なものにする為の議論、まともな著作権とはどういったものかということについての議論をすることである。一応確認しておこう。
こういうことを確認しておかないと、私は憂鬱の余り、そんなもんもう要らんわー、とか言って暴走しそうである。
といことで、例えば著作権管理組織は著作権侵害の可能性のあるものを発見したら、それを著作者に知らせて、で、その著作者が「そいつは侵害にあたる」と言った時点で著作権侵害が成立する、というのはどうだろう。
で、この「そいつは侵害にあたる」と言って最終的に著作権侵害を成立させることができるという権利を著作者本人は(生存中は、或は自分で判断しその判断を表明できる間は)第三者に譲ることができないようにするか、或は一旦譲ったとしても、例えば譲った先が変なこと言ったときに、著作者自身が取り戻したいと思えばいつでも任意のタイミングで取り戻すことができるようにするってのはどうだろう。
まあ著作権の問題の核心部分は全く触ってていないような気もするけれど。
一寸はマシになる?否、これでは未だ駄目か。
もっと色々な状況に分けて考える必要がある。
うーん。どうもポンコツ脳プロセッサを積んでる私では、知恵が浅い。
ソフトウェアの世界のコピーレフトは非常に有用な考え方だが、然しコピーレフトだけで万事うまくいく訳ではない。
コピーライトも必要だが、まあJASRACみたいなのが幅をきかせている現状のままでは駄目だろう。(私は音楽をしているので、JASRACが一番先に思い付くのです。同人誌でも描くならあのネズミを挙げていたかも知れない。)
因みに勿論私はJASRACが存在することが悪いと言っているのではない。私はJASRACのような発言力の強い団体がよりまともな団体となることを願っているのである。
コピーレフト的なスタンスの音楽が流行らないかなあ。
クリエイティブコモンズもなぁ、あれは・・・。
まあ兎も角、我々はこの件に関して沢山のことを考えなければならないらしい。
超天才裁判官様がまた人智を遥かに超越した判決を下してしまう。
その御心は我々俗世の普通の市民には到底量り得ず。