2007/05/13

与えられる概念ツール

普通教育が必要なのは、一つには、我々人間は平等に扱われ、等しく自由に生きる権利を持つものとして扱われるべき存在である、といったようなことを誰でも知っているような世界を実現する為であり、更に、誰でも、そのような「自由」や「平等」や「幸福」が実際にはどのようなものであるべきなのか或は実質的には何を意味しているのかといったようなことをちゃんと議論することができるようになるような世界を実現する為である。
勿論他にも注目すべき重要な目的はあるが、この目的も重要である。
学校、少なくとも普通教育の学校は、単なる汎用的職業訓練所ではないし、人間をシステムに従順になるように仕組む為の施設でもない。
普通教育施設を単なる「汎用的職業訓練所」や「こども洗脳工場」として扱うべきでないし、実際にそうなろうとしてきるときにはそれに抵抗すべきである。
「学校で習ったことは社会に出たら役に立たない」という考えは、学校がまともに機能している場合には、誤りである。(而も、「社会に出る」は経済的自立をのみ意味し、「社会」とは自分の周りの非常に狭い範囲を指す場合でさえ、これは誤りである。)
自由に考え、議論する為には、そして自由である為には、実に多種多様な概念ツール(言語)が必要なのである。

このことは、当たり前のことかも知れないが、忘れられがちである。
異常心理ブーム以来、「与えられる概念ツール」や「教育」などと言うと、直ぐに洗脳と結び付けたくなるかも知れない。
また似非ポストモダンのように「唯一絶対の正義など無い」「唯一絶対の真理など無い」等から「総ゆる教育は洗脳と同じである」を短絡的にも導き出したくなるかも知れない。
然し我々は、他の概念についても同様に、民主主義について教えられること無しに民主主義について十分に考え得るだけの概念ツールを開発することは非常に難しい。
我々は先人達の遺産の上に立っているのだ。
悪い遺産もあれば良い遺産もある。
良いか悪いか微妙な遺産ではなく、明らかに良い遺産を蓄積してゆくことは、悪いことではなかろう。