2011/04/01

頭痛自粛

頭痛が痛い。
頭の痛みが痛い。
頭が割れる程頭が割れそうだ。


昨今の何でも自粛すべきという流行に私も乗っかって、今年のエイプリルフールネタ自粛は自粛する方向でいこう。
大したネタも思い付かんがな!
頭痛いのは事実だし。
序でに変なオッサンにスルッとKansaiのカードをパクられたのも事実だ。

じゃあ。
今日は本当のことを言うのは自粛してます。
私は今日は嘘しかつかない。
私の今日の発言は全て嘘である。
まあ嘘ですけどね。
ってのも嘘ですがね・・・。

めんど・ラッセル・くせえ。

節制自粛とかは自粛したいね。
あと運動自粛とかも自粛したい。
序でに暴飲暴食自粛自粛も自粛したい。
こんなときなので。
なんかコンナトキなので。

コンナトキとかナンとか言って戦時下のベタベタな憲兵を演じるくらいなら楽しいことでも考えてた方がマシだ。
寄付金の理に適った分配とかボランティアの在り方とかに思いを巡らせたりするなら尚良し。
序でに国内の地震被害にだけでなく、世界の、紛争やら飢饉やらで人がポコポコ死んだり尊厳を奪われたりしてるような状況にも思いを巡らせることができればもっと良いだろう。
自粛ブームに乗っかって、ナニも困っている人を助けようとしたりその為のウマい仕方を考えることまで自粛することはないと思うがね。
序でに、泣く人の側に在って、同じように泣く格好をするだけが能でもないだろう。
泣く格好をしなければならないしそれだけが唯一許されるべき態度だと思うならそれは多分乗り越えて捨て去るべき強迫観念だ。

因みに或事柄を自粛することを自粛するのは即ちその事柄を推奨したり推進したりすることかといえば、そうでもなさげ。


以下私的言語&オチ無しメモ。
命に関わるような或危機があって、私は自分の恋人(とか子供とか)か赤の他人かどちらか一人だけを救えるとしよう。
どう考えたってどちらか一人しか助けることができないし、身代わりになることもできないような状況にあるとしよう。
自力での危機脱出の可能性は、恋人と他人との間に差が無いことにしよう。
第三者の観点から観て、私と恋人との関係について考慮しないなら、どちらを助けるべきかとかどちらが助け易いかとかは等価であると判断されるものとする。
こういうすげー単純化は余り好きじゃないがまあ我慢しよう。
で、私はどちらを救うべきか。
恐らく私はどちらを救っても決定的な文句は言われないだろう。
どちらの場合でも、その判断が、積極的に正しいと言えるかどうかは暫く問わず、少なくとも間違ったものではないと言える程度の理由を付けることができそうだ。
然し私は恐らく実際には恋人を助けるんだろう。
そしてそのことで「公平性を欠いている」というような非難を浴びせられたとしたら、私はそれで凹むだろうが、その批判自身は虚しいものだ。
助かった恋人が、自分が私の恋人だったことで助かったことを気に病むようなこともあるかも知れないが、それは他人も大体同じように思えるし、これも決定的ではない。
また仮に他人を助けた場合、「恋人を見捨てるなんて冷酷な」と非難されるかも知れないし、「恋人を見捨てるなんてそのときの苦しみは身を切るようなものだったに違いない」とか言って賞賛されるかも知れないが、どちらも決定的ではないように思える。
サァどうしましょ。
どちらを選択したにせよ、私を非難する決定的な理由は無いように思える。

ここで前提を変えて、私と赤の他人が居てどちらか一方しか助からず、どちらが助かるのかの判断は私にしかできないような状況を考えてみよう。
私と赤の他人とで厭世っぷりは同程度だということが解っている。
サテこれは上と同じだろうか・・・。