2008/02/14

幼年期の終わり

私的メモ。
ほぼ私的言語による、私的メモ。
全ての行間において膨大な量の中間が跳ばされている。
或は只単に、トんでいる。


我々は只の動物ではないし、ましてや只の家畜では、全くない。
我々は只単に世界がそうあるような姿に沿って、或はその単なる一部として、流されるだけの存在ではない。
或は、我々は、与えられた餌に飛び付いて一喜一憂するだけの存在でもない。
「人間は完全に自律した存在になれる」といったような最も稚拙な種類のロマン主義的(或は「近代」的)人間観を批判してロマン主義的人間観全体を批判したつもりになっているような種類の人がなんて言うかは知らないが。
或は我々について、最初から最後まで「人間」無しで記述すべきだとどういう訳か思い込んでしまっているような人がなんて言うかは知らないが。

例えば「働く」とか「雇用」ということを、単に労働力の売買としてしか捉えず、その他の視点を放棄或は忘却している人は、まあ昔から居たようだが、今日にも見られる。
或は「動物化する」。
「オート化する」。
アーハァン、それで?
我々が必要としているものは、この「それで?」に対する何らかの有用な回答であって、或事実に対して何度も為されてきた問題提起から問題提起の部分を抜き去って、残りの部分の言葉の上辺だけを換えただけの言葉遊びではない。
これらは「詩的」では全くない。

ロッシーニ管弦楽法的。

社会学や経済学といった、我々自身についての何らかの記述体系から「人間」を取り払ってしまおうという試みは全て誤りである。
これは倫理的な誤りというよりは、方法論的誤りである。

同様に、それらの記述体系から「芸術」を完全に抜き取ってしまおうという試みは、満足のいくものにはならないだろう。

打ち下ろすハンマアのリズムを聞け。

クラークは黄金期を終わらせるのに、超能力に頼るしかなかった。
SFとしてはよくできている。