2012/04/09

無知の知、so what?


首相が「無知の知」なんて言うので少しは何かが頭をよぎらないでもない。
よぎったことを書いていこうかと思うけど・・・。
まあいつも通り、うまく書けないな。


自分が知らないということを知っているのは、その知らないことを知っていると誤認しているよりずっとマシだろう。
然し勿論、自分が無知であることを知っているだけでは大してなんにもならない。

言うまでも無いが、私は多くのことを知らない。
余りにも多くのことを知らな過ぎるので、実際何を知らないかもイマイチよく判ってないので泣けてくる。
わお、無知の知も成り立たねえや。
あ、否、そうでもないのか。
慥かソクラテスも個々の具体的な知について知らんと言ってたというよりは、善とかの抽象的な「重要なこと」とかについて知らんとか言ってたんじゃなかったけな。
あー。どうだっけ。忘れた。
でもそいう区別は明示的にはされてはなかったような気もする。
まあいいや。
兎も角、私頭悪いんよ、解ってんねんで、という話。

ってことで以下お馴染み私的言語。
相変わらずとっ散らかってんなあ。
ちゃんと書こうとすると、まあちゃんと書かないと不可ないねー。

私の知っていることなんざ、現代のこの世界で生きていく為に必要であるように思える知識の内のほんの少しでしかない。
哲学と音楽は多少知ってはいるが十分ではないし、科学は良くて高校で教わるのに毛の生えた程度だし、経済学のことは少ししか解らないし、数学の最先端なんて何が問題になっているのかすら知らないし多分何が問題なのかを理解することもできないだろう。
これが私の現状だ。
これでいいとは全く思わないが、然し全てを知ることはできないし、努力に努力を重ねて今より多くを知ったにせよ、そして未知の部分が減ったにせよ、それでも尚多くを知らないままであろう。
多くの重要なことを。
これは私だけでなくほぼ全ての人間について言えることだ。
私は花粉の季節毎に元々少ない脳味噌が洟となって溶け出して今やどうしようもない馬鹿だが、これは私だけでなく幸運にも少しはマシな頭脳を持った人達にも言えることだ。
恐らくは最高級に頭のイケてる人にも言えるだろう。

現代の生活には知らなければならないことが多過ぎる。
世界は私の(そして我々の内の殆どの)手から既に取り返しのつかない程離れてしまっているように見えるかも知れない。

で?

或者は経済学についてそこそこ理解してはいるが社会学についてはカラキシだったり、また或者は人生のハウツーに通じてはいるが統計がイマイチ理解できないということもある。
或者は膨大な知識を持っているがそれらの知識の一つ一つをつなげて考える能力に劣っていたり、また或者は少ない知識から周囲の人たちをあっと言わせるアイディアを捻り出す能力に長けているかも知れない。
etc.
或トピックが巷間の話頭に上ったとき、こういった人々が色んなことを言うし、多くの場合言いっ放しで顧みられない上に、(一定未満しか知らない人には)誰が正しいことを言っているのかも判らない。
そのトピックに一定以上通じている人には、それが衆愚に見えるかも知れない。
そして例えば選挙の度に無能であるより質の悪いポピュリスト達を統治システムの重要なポストに送り込み、愚かさを再確認するハメになる・・・という訳だ。
これだけを見て「民主主義の限界」として認識する人がいるかも知れない。
或はこれが民主主義の限界なので衆愚政治で満足するしかないと言う人まで出るかも知れない。

私には、これが我々の限界だとは到底思えない。
私は未だ少しは知ることができるし、重要な知識についての効率の良い纏め方も出てくるということもあり得る。
少しは勉強して他者に対してよりうまく想像力を働かせることができるようになるかも知れない。
社会の方が変化して不安定さや予測し難さが減ったりするかも知れない。
尊厳を持って或は社会にコミットして生きることがより簡単になるかも知れない。
剥き出しの暴力や貧困に晒される機会を減らすこともできるかも知れない。
我々はもうちょいちゃんとした自己統治システムを手にすることができるかも知れないし、今より少しはマトモな民主主義を実現できるかも知れない。

これは勿論希望であって、予言ではない。
現状を放置していれば勝手にそうなる、という類のものではない。
(私はネットが強力なツールになり得るという可能性は認めているが)インターネットがあればなんだかよく解らないけど放っとけば上手くいくというテの話でもない。
我々自身がそう在りたいと強く望み、そう在る為に努力することで、うまくいけば達成できるかも知れないという希望であり、(そうしなければならないという)主張だ。
これは我々自身と社会の仕組みが変わることでやっとどうにかなるかも知れないようなことだろう。

この希望は、せっかちな相対主義的悲観主義の一周した楽観主義者達が言うように、本当に望むべくもない、現実的に実現不可能なことなのだろうか。
世界を理解する多様な仕方とか社会をマシにする様々な案の、現在存在する全てとこれから出てくるであろう全てが無用の長物となると結論するに十分な証拠とは何であろうか。


人々、或程度のことしか知らない人々、時には自分のことすらよく分からないこともあるような人々が、自己統治をうまいことやってのける為のシステムとはどういったものであるか或はあるべきか。
また「或程度の知識」の程度を増やしていくのはどうすればいいのか。
何が重要な知識か。それが重要だとどうやって判断するのか。
etc.
これらが政治の問題だ。
私の考えに拠ると、政治システムの在り方や人々に共有されるべき諸価値の在り方等について考えることを放棄しながら政治の問題に取り組むことはできない。
政治の問題は開かれた問題として捉えられるべきだ。