フランス語ローカライズ用の言語リソースを意味も分からず所定の場所へコピペしてて思うことなど:
「脱構築」という訳語を始めに考えた人はなかなかセンスあると思うけど、「差延」という訳語を充てようと決めた人はどうかしてると思う。
訳し過ぎだ。
多分こういう専門用語の訳語もアレ系の哲学の本を読み難くしている。
片仮名でそのまま「ディフェランス」(って読むんだっけ?)とかにした方がよっぽどマシなんじゃね?
或は思い切って「いいまつがい」とかにしてみるとか?
ああ、「いいまつがい」にしても意外と話はそこそこ通じるかも。
まあ結構どうでもいい話だけど。
ああ、学生時代にフランス語の基礎くらい勉強しとけばよかった。
あとギリシャ語とラテン語の発音ぐらい・・・。
先に立たず。
まあマジで後悔してるぐらいなら今からでもやるけど、やらないってことはそれ程でもないんだろう。
総入れ歯。
言葉と社会とを何かしらの仕方で関連付けることを好んだり、或言葉の意味を文脈依存的に解釈することを良しとしたりする種類の哲学における議論での、「この状況において」とか「或種の状況において」とかいう言い回しは、議論を無駄に長くしないようにする上で非常に役立つんだが、「じゃあ君の言ってる「この状況」ってどんな状況よ?」と訊かれると割と面倒臭いことになる可能性があるなあ。
まあ哲学のと言うより普段の会話の話です。
上のように訊かれて「分かるだろ?」と返して済めばいい場合はそれでいいんだけど、この種類の哲学では言葉の意味は状況とか文脈とかが変われば変わり得る訳で、「この状況」をどのように記述するかが変わればそれ以下続く言葉の意味をどう解釈するのが妥当なのかといったことも変わり得る訳だ。
「この状況」は、例えば私の机の上のことを指しているかも知れないし、私の部屋全体を指してるかも知れないし、或は豚インフルエンザが流行るかもというときのことを指しているかも知れない。
まあ普段は「この状況」と言ったとき話者がどういった状況を指そうとしているのかということは聞いてる方も大体のところは分かるだろうけれど、然しその場合でも厳密には、一意には決まらない(可能な記述の仕方は複数存在する)だろう。
序でにこのことを倫理学に当て嵌めてみると、或一つの振る舞い(の一つの記述)が「この状況」についての記述次第で善に見えたり悪に見えたりするかも知れないという訳だ・・・。
ハイ毎度お馴染みのテーマ。
幾らかのイマイチなデリダ愛好家達がここから「自分に正義があるとか思ってる奴マジでウンコだよねー。正義とかねーよ。あれ?私も?ゼツボーした!」ということを導き出してそれだけで終わってしまうことでお馴染みなんだが(このことに関してはデリダ自身はそんなには悪くないと思う)、まあそういう素朴な相対主義は今回は放っとくとして。
何が面倒臭いかというと、「この状況」についての記述がフレーム問題の要領で膨らんでいくかも知れないこと。
まあギャバガイ語訳がいつまで経ってもひとつに決まらないのと似たような感じですな。
まあ説明はどこかで切り上げなければならないので、永久に膨らみ続けることを想定する必要は無いだろうが、それでも思ったより膨大になるということはあるだろう。
私なんかは普段結構いい加減に「この状況よ、だからこの状況でさあ・・・云々」とか言ってしまうんだが、相手がなかなか納得してくれない場合(或はなかなか納得してくれないような相手を想定しているような場合)、そのとき私が「この状況」ということについて説明するのに用意している覚悟を大幅に上回るだけの説明を加えなければならないかも知れない。
要するに・・・私は「この状況」とかいう言い回しに無意識に逃げてしまっているようなことが結構あって、一寸「この状況」という言い回しを多用し過ぎてる気がするので、まあ色々反省しているという訳です。
ああ、フレーム問題と入れ歯。
フレーム問題って人ではあんまり問題にならないようなことが言われることが昔よくあった(最近はどうなんだろう)が、私は結構弱いフレーム問題みたいなのに悩まされるよ。
あんまり親しくない人に会ったときとか。
頭の中が空回りに空回るよ。
で、しゃべれなくなる。
これってフレーム問題の一種と考えていいのよね?
ああ、あとイケてるAIはフレーム問題に囚われてすぐリソースを食い尽くしてしまうとか言うけど、本当かなあ。
結構簡単に回避できると思うんだけど。
てゆうかフレーム問題を起こすように意図的に設計するぐらいでないと、というふうに感じるんだけど。
まあ私はAI設計は素人ですけん、専門家には専門的な何かがあるにチガイナイ。
「そういえば」を「総入れ歯」と言い始めた人は結構センスある。