2009/05/29

反実在論の気持ち

「○○は実在するか」という質問は、私のような種類のプラグマチックな反実在論者には、例えば「「○○は実在する」と言うことは有意味か」というような形に一旦変換されてから処理される。
「○○は実在するか」という質問を目にすると、なんというか、目をギラつかせて直接的な仕方で扱う、というようなことができない、というような感覚を思い起こさせられて、なんだか少々寂しい気分になる。
このときの「実在する」というのが、人間の(特に言語活動を伴う)活動や生活或は(言葉の)意味といったことに関係無くそれが存在する、ということを意味しているなら、私のような反実在論者は、「「○○は実在する」とか言っても特に大した意味は無い」というふうにしか答えられない訳だ。
或は「実在する」が、単に、それが存在するということがいろんな証拠に支えられている、だとか、幻覚ではないとか、現代科学ではそれを存在しているものとして扱っている、といったことを意味してるなら、私にも「それは実在する/実在しない」といったふうに考えたり答えたりすることができるんだけど。
「イエティは実在するか」というような場合には、「まあ実在しないんじゃね?」というふうに答えることができる。
然し多くの場合、「○○は実在するのか」と言うときには、上で挙げたようないろんな思惑がごちゃ混ぜになっていて、私のような種類の反実在論者には俄には答え難いものだ。
実在論には、組み合わせで、かなりのバリエーションが作れると思う。

まあそんな訳で、本をペラペラ読んでたりして「実在」という言葉が出てくると、すぐに躓いてしまう。
そしてよく検めてみた結果、多くの場合、私ははぐらかしたような答え方しかできなくて寂しい気持ちになる。