自分が今何を考えているのか全てはっきり判るという人は、そいつぁシアワセなこって。
或は自分の今体験してることから「赤の体験(或は感覚)そのもの」だけを分離できる人とか。
自分の欲望やら欲求やらを完全に把握している人とか。
まあそれは兎も角として、もう少しぼんやりした話。
自分が目下のところ考えていることを考えている、その原因だとか理由だとか来歴とかを思い出したり説明したりすることが難しいときがある。
私なんて大抵の場合難しい。
で、そういうことを思い出したり説明しようとしたりするとき、幾らかの場合では、「はっ、と我に返って云々」なんて謂う訳だけど、何かを考えているときよりその考えていることに何か説明を与えようとしているようなときの方が本来の「我」であるというようなイメージで「我」が捉えられているかのようであるということは面白い。
単に「我に返る」という言葉が「冷静で居る」ということの言い換えであるというよりは、例えば空想に耽っているときよりも冷静で居るときの方が「我」っぽい、或は何かに集中しているときよりも自分を対象化しようとしているときの方が「我」っぽい、という感じ。
「私は~と思っている」
「私は私が~と思っていると思っている」
「私は私が私が~と思っていると思っていると思っている」
・・・
単にこれらの一番外側にある「私は~と思っている」構造の部分が一番「我」っぽいというだけなんだろうかねえ。
或はもう一寸面白味のある切り口がありそうだ・・・。
例えばラカンだったら・・・ああ、無駄に面倒臭そうだからやっぱ止そう。
というようなことを、風呂の中で思った。
なんでそんなことを思ったんだっけ・・・。