2011/09/03

満額の伝説

牛ミンチがあったので、ハンバーグかオムレツでも作ろうと思いながらぼんやり料理をしたら、その中間のなんだかよく判らないものができあがる。
最低限、何を作るか決めてから料理を開始すべきだ。
まあ割と不味くなかったけど。


昔から語り継がれている伝説。
そういう伝説が、昔の人々にどのような仕方で捉えられていたのか、興味がある。
昔の人々にも当然合理性はあったし、現代人に比べて本質的に頭が悪かったなどと考えるべき理由も特には思い付かない。
然し昔の人の置かれた情報環境と現代人の置かれている情報環境は違うので、或は昔の人の情報環境下で育ったものごとの捉え方と現代の情報環境下で育ったものごとの捉え方とは幾らか質的に違うという可能性がある。
少なくとも現代人の思考の形態とか合理性とかをそのまま全く変えずに昔の人に当て嵌めて考えるべきだとも思えない。
現代人と昔の人との間に幾らかの差異はあるだろうし、同じ伝説でも捉え方は恐らく或程度は違っていただろう。
それがどういう風に違っていてどういう風に同じだったのかについて想像するのは楽しい。

昔の人は伝説をいつも馬鹿正直に満額で信じていると我々は想像しがちだと思うんだけど、ホントにそんな感じで信じてたのだろうか。
私はそうは思わない。
多くの場合、満額よりは幾らか差し引かれていたように思える。

昔の人のものの捉え方をよく想像されがちなのよりも現代人のに引きつけて想像してみると、楽しい。
例えば日本神話とか、どのくらいマジな態度で捉えられていたのか。
慥か古語拾遺(平安時代の始めの方)か何かに「神代の話とか普通に考えたら俄には信じ難い」という感じの一節があったような気がする。
勿論その後に「が、神々は信じられないようなことをやってのける(そこにシビれる憧れるゥ!)、ということがその神性を表している」という、なんの説明にもなってない言葉が継がれるのだけれど、これは権威に対する反逆の意志の無いことを証だてようとする無意識的な姿勢の表れとも捉えられないでもない。
まあ兎も角、信じなければならないとされていたり疑問を持ってはいけないとされていることなので、心底信じているかのような態度を習慣的に採っていて、それに因って全体論的網の目の幾つかの不整合から目を逸らすことに慣れ切ってしまっているかも知れない。
そうしとくと波風立たないし。
今で言うところの性犯罪周りのこととか原発周りのこととかかね。
死を以て償うとか言うけど、この21世紀の世で、なんで死ぬことで償ったことに繋がるのか、とかか。
如何にして遺族の感情で刑の多寡が変動すべきと考えることができるのか、どういった理由で感情への配慮が遺族のものに限られているのか、とか。

然し兎も角、日本神話の話とか、少なくとも普通に考えた場合にはあり得ないということが判るぐらいの判断力は、昔の人にもある訳だ。
このことは、伝説を満額で信じていた訳ではないと考えることに、多少の尤もらしさを与える。
然し満額からどのくらい差し引かれていたのかは妄想する余地がある。
このことからもっと拡げて、昔の人は現代人と割と似たような形の思考の形態を持っていたと考えて、そういった視点で昔の本とか読むと、楽しい。


新聞は取ってないのだが、新聞社の名前を冠したネットニュースは見たりする。
今はもう新聞の記者の間では、安易なレトリックを廃して事をできるだけ正確に伝えようという努力は、全てまるっきり諦められてしまっているのかね。
タブロイドと差異化することは、もうされてないのかね。