2011/07/25

ファッションリベラル-アナキズム

今日は陽が落ちてから風が無いので部屋の中は結構暑い。
風が吹けば遣り過ごせるのだけど・・・。
然しこの時期に来ても熱帯夜という訳ではないのは、皆クーラーを点けてないことも影響しているのか。
或は単に未だ夏が本調子でなくて気温が低いだけなのか。

節電からのクールビズのおかげで、夏でもガシガシのスーツを着なくてはならないという強迫観念から解放されつつあるのは、概ねいい傾向だろう。
学校でも、学生に阿呆みたいに高価な学生服を漠然とした権威への隷従の証として馬鹿の一つ覚えで着させるのではなくて、夏はもっと機能的で涼しい格好をさせたらいい。
丁度良い機会なので、人を見た目で判断するという文化を捨ててしまってはどうか。
或は換言すると、人の人間性や価値をその人の服装と関連付けるという愚行を許すばかりでなく推奨するような文化を捨ててしまってはどうか。
もっと端的に言うと、自分達が想定している服装と違う服装をしている人に関してその人の人間性や価値を低く判断することが正当であると認められるような馬鹿馬鹿しい文化をすっかり捨ててしまうのだ。
この文化は本当に馬鹿げているし本当に下らないのだが、非常に根が深い。

確かに自分自身がどういう者であるかを表現するのに、場合によってはファッションはその手段の一つとなり得る。
然し大いに制限された中で。
服を選ぶのは、単に他人の視覚に訴えるだけでもないし、容貌や体格に合う合わないだけでもない。
また単に「こう在りたい」「こう見られたい」というだけ服が選ばれるのでもない。
「こう在りたいと思っていると他人から思われる」「こう見られたいと思っていると他人から思われる、然し・・・云々」等々といったようなことが非常に複雑に絡まり合った社会的行為でもある。
ファッションが自由であるとすれば、まあどんな自由でもそうだが、人間のこの複雑な社会的行為として自由でなければならない。
然し服装の自由は、一つにはこの馬鹿げた文化のおかげで、アカデミックなフェミニストが性と服装についてよく話題に上げるように、或はものがイマイチよく解ってないテレビ御用フェミニストが語るよりもずっと深いレベルで、実際のところ殆どの部分が制限されているように見える。

或は例えば男性がスカート(タータンチェックでない)を履くだけでも人は馬鹿みたいに騒ぎ立てたりする。
服装について三流占い師みたいな下らないことをどっかの企業の面接担当がブログメディアの記事に書いたりして就活中の学生のやる気を削いだりすることが可能となる訳だ。

我々のこの愚かな文化が捨て去られてしまえば、ファッションも現在のものとはもう少し違ったものとなるだろう。
この愚かな文化が捨てられるなら、幾らかは、他の権威主義を捨て去る契機の一つとなるかも知れない。