2007/03/24

灰羽連盟、チロルチョコ、光のない闇

目の奥が、ズン、と痛い。
肩も重い。
血流がどこかで滞っているように思える。


アマゾンさんが灰羽連盟のDVD-BOXを買わないかと誘う。
今なら一万チョイですよ、と。
うーん。
私はアニメのDVDとか買ったこと無いのだけれど、これは買ってもいいかも知れない。
灰羽連盟ってのは、私の知ってるアニメの中では最高のアニメなのです。
私がこの商品に対してお金を支払うことで、このアニメを作った人達やそれに携わった人達に、幾らか、経済的な援助の一端を成せばいいと思う訳です。
そしてまたこういう優れた作品が出てきてそれをまた我々が観ることができるような仕組みを、維持したり発展させたりする助けになればと思う訳です。

作品の優劣と経済に関する概念とを安易に結び付けるべきではない、ということは勿論忘れてはならない。このことを理解するには、特に90年代後半以降に、「売れている」というだけの酷い音がCDに詰められ、「音楽」の名で呼ばれ、更に芸術に携わっているとは到底言えない、只歌ってるだけの人達が「アーティスト」と呼ばれ、これらの酷い、確信に満ちた、あからさまな詐欺行為によって、その時代を生きた多くの若者の音楽的希望という概念を消し去ってしまったということを思い出すだけでよい。
因みにこういった希望消滅後の希望の不在感が、「希望なんてものは近代の遺物でしかなく、もう希望なんて不可能なのだ」みたいな感じで、自分の絶望しているポーズがお気に入りの「ポストモダン」好きの著作家達によって現在利用されるに至っている、というのが、ぼんやりとした私の考え。(「ぼんやりとした」は「私」にかかっている)
因みに、希望が不可能なら絶望することは論理的には不可能だということを忘れてはならない。と同時に、感情的にはそれが可能ではあるということも忘れてはならない。
「光のない闇」は論理的には在り得ないが感情的にはあり得る。
因みに因みに因みに、「光のない闇」ってのは芥川龍之介の『歯車』だったかな?キリスト教徒の老人が「光のない闇などあり得ない、自分が闇の中にあると思うなら光を見ればいい」と主張するのに対して主人公は「でも光のない闇もあるでしょう」と主張してかみ合わない、という場面があるのです。そういや芥川の全集もそろそろ手に入れないと。

が、まあ兎も角、優れた作品を作るのに携わった人達には感謝したいものだし、その感謝の表現として、金銭的概念を用いようとしてしまわなくもない。
まあ然し実際のところは、その一万円の内の多くの部分は、私の意図から外れた所へ流れるのだろうし、その流れた金が次の新しい素敵作品を生むのを阻む可能性だってある訳だが。

まあそれは兎も角、一巻ずつ買って揃えるのは死ぬ程金が掛かるが、一万円ならなんとか出せなくもない。
恐らくその世界では格安なんだろうなあ。
されど一万円。
1000円のクラシックの廉価盤10枚分。
「人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」の彼が一人分。
チロルチョコが・・・って、チロルチョコって今幾ら?
まあ一万円ではギターは(殆どの場合)買えないことを考えると、安いかも知れない。
あのダンエレクトロでさえ買えない。
BOSSのエフェクター約一個分か。
あー、買うかなー。