「○○力」というのがイヤになる程流行っているようだ。
テレビや本屋や街中の広告など、それらを見かけない日は無い。
それらの語は、殆どの場合、どうにかして誰かを馬鹿にしたくって仕方の無い、まともな神経を持っていると自称する方々がその語を使用することによって自らの思慮の浅はかさや愚かさや醜さを表現なさる、という以外に使い道の無い語である。
或は、簡単には数値化し得ないものを宛も数値化したかのように見せかけたり、或はそもそも存在しない価値を宛も存在するかのように見せかける詐欺には役に立つかも知れないが。
どちらにせよ甚だ醜い。
美とは、女の細い指の柔らかい形やラファエロの描いた絵に端的に存するものではないし、或はそれらを見たときに感じた第一印象のような前言語的で意識下の未分化のものに端的に存するものでもない。
それらは概念や信念といった意識的で言語的なものと密接に関わり合っているし、またそういった関わり合い無しに美は存在し得ない。
醜さも然り。
美とは単なる感覚ではない。
特に美の道を往かんとする者はこのことを失念すべからず。
上の語の、その語呂や音や字面に拘わらず醜いのは、そういった理由からである。
差別意識や詐欺行為がおぞましいのと同じ意味でおぞましい。
2007/03/29
全集
全集というのは、アマゾンでまとめて買おうとするからいつまで経っても買えないのだ。
本屋の店舗に寄って何か買う序でに全集の中から一冊買う、というようにすれば、一気に財布が寂しい感じにならずに済む。
結局は全部揃えるのだから、最終的に費やす資金は同額ではあるが、そっちのほうが心が落ち着く。
早速、色々漫画など買う序でに芥川の全集をひとつ買って、今後も少しづつ買い揃えていくことに。
フルカラー漫画雑誌のrobotも創刊号だけ買って、イマイチだったのでその後買い控えていたが、冬目景とかも描くようになって、最近、一寸続きを揃えてみたくなった。
もう八つも出てるので、一冊2000円として、あと14000円も注ぎ込まなければならない計算になるが、これも一冊ずつ買えば、と思ったが、やっぱ漫画一冊2000円というのは、幾らフルカラーとはいえ、少々手を出し難いものである。
本屋の店舗に寄って何か買う序でに全集の中から一冊買う、というようにすれば、一気に財布が寂しい感じにならずに済む。
結局は全部揃えるのだから、最終的に費やす資金は同額ではあるが、そっちのほうが心が落ち着く。
早速、色々漫画など買う序でに芥川の全集をひとつ買って、今後も少しづつ買い揃えていくことに。
フルカラー漫画雑誌のrobotも創刊号だけ買って、イマイチだったのでその後買い控えていたが、冬目景とかも描くようになって、最近、一寸続きを揃えてみたくなった。
もう八つも出てるので、一冊2000円として、あと14000円も注ぎ込まなければならない計算になるが、これも一冊ずつ買えば、と思ったが、やっぱ漫画一冊2000円というのは、幾らフルカラーとはいえ、少々手を出し難いものである。
2007/03/28
2007/03/27
ブルースクリーン
うーん、まだブルースクリーンが出るなあ。
SONARの所為なのかメモリ周りの所為なのかM-AUDIOのFireWire410のハード或はドライバの所為なのか。
或はその他のものなのか、それらのどれかの相性の問題なのか。
メモリを換えてからブルースクリーンが頻発することは無くなったが、SONARで作業しているときには結構な頻度で出てくる。
まあ結構慣れてきたんで、こまめにセーブして、それまでの苦労が水の泡というようなことはあまり無くなってきてはいるのだけれど、その度に再起動せねばならないのは非常に苛立たしい。
セキュリティソフトの所為で立ち上がりが非常に遅いし。
そしてセキュリティソフトの所為で立ち上がりが遅い所為で、スタートアップに登録したアプリケーションがうまく作動しなかったり。
SONARの所為なのかメモリ周りの所為なのかM-AUDIOのFireWire410のハード或はドライバの所為なのか。
或はその他のものなのか、それらのどれかの相性の問題なのか。
メモリを換えてからブルースクリーンが頻発することは無くなったが、SONARで作業しているときには結構な頻度で出てくる。
まあ結構慣れてきたんで、こまめにセーブして、それまでの苦労が水の泡というようなことはあまり無くなってきてはいるのだけれど、その度に再起動せねばならないのは非常に苛立たしい。
セキュリティソフトの所為で立ち上がりが非常に遅いし。
そしてセキュリティソフトの所為で立ち上がりが遅い所為で、スタートアップに登録したアプリケーションがうまく作動しなかったり。
2007/03/26
2007/03/25
2007/03/24
灰羽連盟、チロルチョコ、光のない闇
目の奥が、ズン、と痛い。
肩も重い。
血流がどこかで滞っているように思える。
アマゾンさんが灰羽連盟のDVD-BOX
を買わないかと誘う。
今なら一万チョイですよ、と。
うーん。
私はアニメのDVDとか買ったこと無いのだけれど、これは買ってもいいかも知れない。
灰羽連盟ってのは、私の知ってるアニメの中では最高のアニメなのです。
私がこの商品に対してお金を支払うことで、このアニメを作った人達やそれに携わった人達に、幾らか、経済的な援助の一端を成せばいいと思う訳です。
そしてまたこういう優れた作品が出てきてそれをまた我々が観ることができるような仕組みを、維持したり発展させたりする助けになればと思う訳です。
作品の優劣と経済に関する概念とを安易に結び付けるべきではない、ということは勿論忘れてはならない。このことを理解するには、特に90年代後半以降に、「売れている」というだけの酷い音がCDに詰められ、「音楽」の名で呼ばれ、更に芸術に携わっているとは到底言えない、只歌ってるだけの人達が「アーティスト」と呼ばれ、これらの酷い、確信に満ちた、あからさまな詐欺行為によって、その時代を生きた多くの若者の音楽的希望という概念を消し去ってしまったということを思い出すだけでよい。
因みにこういった希望消滅後の希望の不在感が、「希望なんてものは近代の遺物でしかなく、もう希望なんて不可能なのだ」みたいな感じで、自分の絶望しているポーズがお気に入りの「ポストモダン」好きの著作家達によって現在利用されるに至っている、というのが、ぼんやりとした私の考え。(「ぼんやりとした」は「私」にかかっている)
因みに、希望が不可能なら絶望することは論理的には不可能だということを忘れてはならない。と同時に、感情的にはそれが可能ではあるということも忘れてはならない。
「光のない闇」は論理的には在り得ないが感情的にはあり得る。
因みに因みに因みに、「光のない闇」ってのは芥川龍之介の『歯車』だったかな?キリスト教徒の老人が「光のない闇などあり得ない、自分が闇の中にあると思うなら光を見ればいい」と主張するのに対して主人公は「でも光のない闇もあるでしょう」と主張してかみ合わない、という場面があるのです。そういや芥川の全集もそろそろ手に入れないと。
が、まあ兎も角、優れた作品を作るのに携わった人達には感謝したいものだし、その感謝の表現として、金銭的概念を用いようとしてしまわなくもない。
まあ然し実際のところは、その一万円の内の多くの部分は、私の意図から外れた所へ流れるのだろうし、その流れた金が次の新しい素敵作品を生むのを阻む可能性だってある訳だが。
まあそれは兎も角、一巻ずつ買って揃えるのは死ぬ程金が掛かるが、一万円ならなんとか出せなくもない。
恐らくその世界では格安なんだろうなあ。
されど一万円。
1000円のクラシックの廉価盤10枚分。
「人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」の彼が一人分。
チロルチョコが・・・って、チロルチョコって今幾ら?
まあ一万円ではギターは(殆どの場合)買えないことを考えると、安いかも知れない。
あのダンエレクトロでさえ買えない。
BOSSのエフェクター約一個分か。
あー、買うかなー。
肩も重い。
血流がどこかで滞っているように思える。
アマゾンさんが灰羽連盟のDVD-BOX
今なら一万チョイですよ、と。
うーん。
私はアニメのDVDとか買ったこと無いのだけれど、これは買ってもいいかも知れない。
灰羽連盟ってのは、私の知ってるアニメの中では最高のアニメなのです。
私がこの商品に対してお金を支払うことで、このアニメを作った人達やそれに携わった人達に、幾らか、経済的な援助の一端を成せばいいと思う訳です。
そしてまたこういう優れた作品が出てきてそれをまた我々が観ることができるような仕組みを、維持したり発展させたりする助けになればと思う訳です。
作品の優劣と経済に関する概念とを安易に結び付けるべきではない、ということは勿論忘れてはならない。このことを理解するには、特に90年代後半以降に、「売れている」というだけの酷い音がCDに詰められ、「音楽」の名で呼ばれ、更に芸術に携わっているとは到底言えない、只歌ってるだけの人達が「アーティスト」と呼ばれ、これらの酷い、確信に満ちた、あからさまな詐欺行為によって、その時代を生きた多くの若者の音楽的希望という概念を消し去ってしまったということを思い出すだけでよい。
因みにこういった希望消滅後の希望の不在感が、「希望なんてものは近代の遺物でしかなく、もう希望なんて不可能なのだ」みたいな感じで、自分の絶望しているポーズがお気に入りの「ポストモダン」好きの著作家達によって現在利用されるに至っている、というのが、ぼんやりとした私の考え。(「ぼんやりとした」は「私」にかかっている)
因みに、希望が不可能なら絶望することは論理的には不可能だということを忘れてはならない。と同時に、感情的にはそれが可能ではあるということも忘れてはならない。
「光のない闇」は論理的には在り得ないが感情的にはあり得る。
因みに因みに因みに、「光のない闇」ってのは芥川龍之介の『歯車』だったかな?キリスト教徒の老人が「光のない闇などあり得ない、自分が闇の中にあると思うなら光を見ればいい」と主張するのに対して主人公は「でも光のない闇もあるでしょう」と主張してかみ合わない、という場面があるのです。そういや芥川の全集もそろそろ手に入れないと。
が、まあ兎も角、優れた作品を作るのに携わった人達には感謝したいものだし、その感謝の表現として、金銭的概念を用いようとしてしまわなくもない。
まあ然し実際のところは、その一万円の内の多くの部分は、私の意図から外れた所へ流れるのだろうし、その流れた金が次の新しい素敵作品を生むのを阻む可能性だってある訳だが。
まあそれは兎も角、一巻ずつ買って揃えるのは死ぬ程金が掛かるが、一万円ならなんとか出せなくもない。
恐らくその世界では格安なんだろうなあ。
されど一万円。
1000円のクラシックの廉価盤10枚分。
「人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」の彼が一人分。
チロルチョコが・・・って、チロルチョコって今幾ら?
まあ一万円ではギターは(殆どの場合)買えないことを考えると、安いかも知れない。
あのダンエレクトロでさえ買えない。
BOSSのエフェクター約一個分か。
あー、買うかなー。
2007/03/22
2007/03/21
1001回目
いつの間にやらこのブログの記事数が1000個を超えてたらしい。
今回で1001記事目。
結構毎日更新してたからなあ。
最初の記事が2004年6月17日だから、2年と9ヶ月ぐらいやってんのか。
結構続くものだなあ。
すぐ飽きるかと思ったけど、ブログ更新が日常的な生活の一部となってしまえばつ続くものなのだなあ。
ブログ書くのは結構労力を消費するのに。
なんかもっと他のことに労力を注ぎ込めばよかったようにも思えなくもない。
そういや私のホームページの方は、背景色を毒々しい色に変えてから全然いじってない。
もう一個のアマゾンアフィリエイトで儲けようと企んでいた音楽レヴューのサイトも。
てゆうか最近どちらにもアクセスさえしてない。
今度あっちを一寸どうにかしてみようか。
今回で1001記事目。
結構毎日更新してたからなあ。
最初の記事が2004年6月17日だから、2年と9ヶ月ぐらいやってんのか。
結構続くものだなあ。
すぐ飽きるかと思ったけど、ブログ更新が日常的な生活の一部となってしまえばつ続くものなのだなあ。
ブログ書くのは結構労力を消費するのに。
なんかもっと他のことに労力を注ぎ込めばよかったようにも思えなくもない。
そういや私のホームページの方は、背景色を毒々しい色に変えてから全然いじってない。
もう一個のアマゾンアフィリエイトで儲けようと企んでいた音楽レヴューのサイトも。
てゆうか最近どちらにもアクセスさえしてない。
今度あっちを一寸どうにかしてみようか。
2007/03/20
通し番号で一括リネーム
なんとなしに、Rubyで大量のJPEGファイルを通し番号で一括リネームするプログラムを書いてみたのだけれど、イマイチうまくいかない。
数行程度の簡単なプログラムの筈なのに。
File.renameだけだと同じファイル名が既に存在している場合、ファイル名を上書きしてしまうので、それを回避するのにあれこれやっている訳なのだが、コードを何度書き直しても何故かエラーを吐いてしまう。
恐らく何かプログラム初心者が陥る罠に、私もその例に漏れず陥っているのだろう。
Rubyのリファレンスマニュアルはイマイチ見難いしなあ。
やっぱどちらかというと慣れ親しんでいるJAVAで書いた方がよかったか・・・。
と思ったら"else"が"eles"になってたよ・・・。
英語の問題でした、という話。
数行程度の簡単なプログラムの筈なのに。
File.renameだけだと同じファイル名が既に存在している場合、ファイル名を上書きしてしまうので、それを回避するのにあれこれやっている訳なのだが、コードを何度書き直しても何故かエラーを吐いてしまう。
恐らく何かプログラム初心者が陥る罠に、私もその例に漏れず陥っているのだろう。
Rubyのリファレンスマニュアルはイマイチ見難いしなあ。
やっぱどちらかというと慣れ親しんでいるJAVAで書いた方がよかったか・・・。
と思ったら"else"が"eles"になってたよ・・・。
英語の問題でした、という話。
2007/03/19
2007/03/18
2007/03/17
名刺入れ
卒業式に行ってきた。
どうやら無事卒業できたようだ。
学校からビミョウな名刺入れを貰った。
なんか学校のマーク入ってるし、使わないだろう。
無駄に分厚いし。
普通のアルミの名刺入れの上下に、アルミ板に革を張ったものを両面テープで貼り付けてある。
恐らく持ち運びようではないのだろう。
机の中に据え置く用か。
まあそれにしては入る枚数が少ない気もしなくもないが。
因みに造りは非常に悪い。
鞄の中に入れたら潰れそう。
矢っ張り据え置くしか。
これなら無印で買った方が。
まあパッと見は、まあまあ格好良いのだけれど。
私は、個人的には、鉛筆とかの方が嬉しかったかなあ。
うーん、そうでもないか・・・。
卒業生に何をあげたらいいのかというのは、結構難しいものなのかも知れない。
多分何を貰っても不平を言ったのだろう、という気がしないでもない。
何をあげるか決めるにあたっては、要らなければ放ればいいのだ、というぐらいの覚悟が要るのかも知れない。
紅白饅頭が好い。
どうやら無事卒業できたようだ。
学校からビミョウな名刺入れを貰った。
なんか学校のマーク入ってるし、使わないだろう。
無駄に分厚いし。
普通のアルミの名刺入れの上下に、アルミ板に革を張ったものを両面テープで貼り付けてある。
恐らく持ち運びようではないのだろう。
机の中に据え置く用か。
まあそれにしては入る枚数が少ない気もしなくもないが。
因みに造りは非常に悪い。
鞄の中に入れたら潰れそう。
矢っ張り据え置くしか。
これなら無印で買った方が。
まあパッと見は、まあまあ格好良いのだけれど。
私は、個人的には、鉛筆とかの方が嬉しかったかなあ。
うーん、そうでもないか・・・。
卒業生に何をあげたらいいのかというのは、結構難しいものなのかも知れない。
多分何を貰っても不平を言ったのだろう、という気がしないでもない。
何をあげるか決めるにあたっては、要らなければ放ればいいのだ、というぐらいの覚悟が要るのかも知れない。
紅白饅頭が好い。
2007/03/16
公的/私的の付け加え
オウケイ、書き忘れてたことを一言付け足しとこう。
ローティの公的/私的の区別にはもう一つの問題点があって、それは、そのように区別するということについての問題というよりは、その区別で政治の基本的な問題がまるっと解決できるとローティが考えている、という点にある。
この問題も昨日の記事で言うところの後者の読み方で或程度は軽減されるものの、それで万事解決とは行かないだろう。
これは何を政治の中心問題として捉えるかということに関する問題にも絡んでいるので、簡単には、ハイそうですよ、とも、イエ違いますよ、とも、なかなか言えない。
従って、書くのがなかなか面倒臭い。
そして眠い。
明日早いし。
ここまで書いておいて・・・。
まあそんな感じで、詳しくは、また気が向いたら。
ローティの公的/私的の区別にはもう一つの問題点があって、それは、そのように区別するということについての問題というよりは、その区別で政治の基本的な問題がまるっと解決できるとローティが考えている、という点にある。
この問題も昨日の記事で言うところの後者の読み方で或程度は軽減されるものの、それで万事解決とは行かないだろう。
これは何を政治の中心問題として捉えるかということに関する問題にも絡んでいるので、簡単には、ハイそうですよ、とも、イエ違いますよ、とも、なかなか言えない。
従って、書くのがなかなか面倒臭い。
そして眠い。
明日早いし。
ここまで書いておいて・・・。
まあそんな感じで、詳しくは、また気が向いたら。
2007/03/15
公的/私的領域
本日の授業に触発されて。
忘れぬ間に。
まあ私は自分でイヤになる程ローティのコピーキャットな訳です。
で、そこから脱却しようとするものの、いつもそこへ戻ってしまって、自分の不勉強と無才能にゲンナリする訳です。
ローティってのは、一般的には、人の信念や行為といったものを公的領域に属するものと私的領域に属すものとに分ける、というところが問題だとされる。
私の記憶が正しければ、彼自身も確かどこかで、自分の哲学的特徴はこの公的/私的の区別にあると言っていた筈だ。
ローティをさらっと読むのなら、この公的/私的の区別を或種の二元論を為しているぐらいに強いものだとして捉えるのが普通の読み方なんじゃないかと思う。
若しそう読んだとすれば、問題は明らかだ。
「これは木だ」とか「私はロックが好きだ」とか「ちゃんとした民主主義が達成されるべきだ(と私は思う)」といった言明や、或はジャズを演奏することや投票所で一票を投げ込むといった行為が公的なものなのか私的なものなのか、完全にどちらかの一方であるなんてことが言えるなんてことはあり得ないだろう。
それで「ローティともあろう人が」ということになるのである。
然し若しこの公的/私的の区別をもっと弱く捉えることができるならどうだろう。
つまりローティの主張の強さは彼の挑発癖の一例でしかなく、実際彼が意図しているのはもっとマイルドな区別だと読めないだろうか。
価値と事実の区別のように(「事実/価値の区別ったって、それらを完全に分けることなどできないのだ、それらは絡まり合っているのだ」という内容のパトナムの論文を使う授業を本日受けてきたのです)。
単純化することで会話を簡単便利にするような、会話の道具としてこの区別を捉えるのだ。
てゆうかローティにとっては言葉自体が会話の道具なんだけれど。
事実/価値の区別のように公的/私的領域の区別も、それぞれ別の言葉を使ってるぐらいなんだから確かにそれなりに違いはあるのだが、その区別は、それが一方に属するということが分かればもう一方には属さないということも分かる、というような排他的な区別ではない、と考えるのだ。
或信念とか振る舞いは公的であり且つ私的でもあるのだが、公的領域における意味が取るに足らないものである場合には、その公的意味を無視しても或程度は構わない、と考えてみよう。
で、なんで「或程度」かというと、それを彼のアイロニーの議論と絡めて考えるのだ。
つまり、自分が「その公的意味は取るに足らない」と考えていたとしても、そしてそのことが現在において殆どの人に受け入れられていたとしても、自分が間違っていて実際にはそれは公的な影響が甚だしいものなのかも知れないし、或は時代が変わればその取るに足らなかった公的意味が未来には非常に重要な意味を成すものとなるかも知れない、ということをアイロニストは肝に銘じておかなければならない、という点を思い出すのだ。
そういう限定の中で、公的意味が取るに足らないようなものを「私的領域に属する」ものとして考えるのだ。
そう考えると、「それはどの程度私的でどの程度公的なのか」といった公的/私的の度合いについての問いが可能となる。
で、彼曰く「私的な領域では何やってもいい」のであるが、この「何やってもよさ」の具合はそれがどれだけ私的だと捉えられるのか、ということによって変化し得るという訳だし、序でに言っとくと、完全な「私的領域に属する事柄」など無いのだから、ほんとうに何やってもいいような状況など無い訳だ。
で、こうのようにローティを読んだときのローティの問題点は、では「私的領域」を措定する必要があるのか、というところだ。
勿論必要はある、と私は考える。
それはそのような措定が便利だからだ。
その詳細は・・・面倒臭いからもういいや。
後は誰かに任せた。
誰か任された人、自分の論文にまとめてください。
まあ兎も角、私はこの後者の読み方の方が、ローティの読み方としてより一貫性を持った読み方なんじゃないかと考えているのです。
まあ確かに或程度、テキスト以上の深読みをしてるということは認めないと不可ないだろうが。
もしかしたら明らかに間違った読み方なのかも知れない。
間違いではなかったとしても、そう読まなければならないということを示すような文献的証拠が足りない。
まあこれは私の不勉強が9割なんだが。
ローティの新しい論文集出たんで、買って読まなければならないっぽい。
でもなんかビミョウに高いんだよなあ。
アマゾンのショッピングカートには入っているのだが、次の発注のときに買うかどうかは分からない、という感じで。
で、まあ少なくともこう読んだ方が、ローティの公的/私的の区別が彼の哲学の体系の他の部分によく馴染む気がする。
これ修論に書けばよかった。
いつか書こうと思ってなかなか書く勇気が無かったのです。
クワッ、クワッ、クワッ、なハートなもので。
結構ダサイことはぱっと書いてしまう割にこういうところで尻込みしてしまう。
あと執筆をサボりすぎて時間も足らんかった。
つくづく駄目な学生だった。
忘れぬ間に。
まあ私は自分でイヤになる程ローティのコピーキャットな訳です。
で、そこから脱却しようとするものの、いつもそこへ戻ってしまって、自分の不勉強と無才能にゲンナリする訳です。
ローティってのは、一般的には、人の信念や行為といったものを公的領域に属するものと私的領域に属すものとに分ける、というところが問題だとされる。
私の記憶が正しければ、彼自身も確かどこかで、自分の哲学的特徴はこの公的/私的の区別にあると言っていた筈だ。
ローティをさらっと読むのなら、この公的/私的の区別を或種の二元論を為しているぐらいに強いものだとして捉えるのが普通の読み方なんじゃないかと思う。
若しそう読んだとすれば、問題は明らかだ。
「これは木だ」とか「私はロックが好きだ」とか「ちゃんとした民主主義が達成されるべきだ(と私は思う)」といった言明や、或はジャズを演奏することや投票所で一票を投げ込むといった行為が公的なものなのか私的なものなのか、完全にどちらかの一方であるなんてことが言えるなんてことはあり得ないだろう。
それで「ローティともあろう人が」ということになるのである。
然し若しこの公的/私的の区別をもっと弱く捉えることができるならどうだろう。
つまりローティの主張の強さは彼の挑発癖の一例でしかなく、実際彼が意図しているのはもっとマイルドな区別だと読めないだろうか。
価値と事実の区別のように(「事実/価値の区別ったって、それらを完全に分けることなどできないのだ、それらは絡まり合っているのだ」という内容のパトナムの論文を使う授業を本日受けてきたのです)。
単純化することで会話を簡単便利にするような、会話の道具としてこの区別を捉えるのだ。
てゆうかローティにとっては言葉自体が会話の道具なんだけれど。
事実/価値の区別のように公的/私的領域の区別も、それぞれ別の言葉を使ってるぐらいなんだから確かにそれなりに違いはあるのだが、その区別は、それが一方に属するということが分かればもう一方には属さないということも分かる、というような排他的な区別ではない、と考えるのだ。
或信念とか振る舞いは公的であり且つ私的でもあるのだが、公的領域における意味が取るに足らないものである場合には、その公的意味を無視しても或程度は構わない、と考えてみよう。
で、なんで「或程度」かというと、それを彼のアイロニーの議論と絡めて考えるのだ。
つまり、自分が「その公的意味は取るに足らない」と考えていたとしても、そしてそのことが現在において殆どの人に受け入れられていたとしても、自分が間違っていて実際にはそれは公的な影響が甚だしいものなのかも知れないし、或は時代が変わればその取るに足らなかった公的意味が未来には非常に重要な意味を成すものとなるかも知れない、ということをアイロニストは肝に銘じておかなければならない、という点を思い出すのだ。
そういう限定の中で、公的意味が取るに足らないようなものを「私的領域に属する」ものとして考えるのだ。
そう考えると、「それはどの程度私的でどの程度公的なのか」といった公的/私的の度合いについての問いが可能となる。
で、彼曰く「私的な領域では何やってもいい」のであるが、この「何やってもよさ」の具合はそれがどれだけ私的だと捉えられるのか、ということによって変化し得るという訳だし、序でに言っとくと、完全な「私的領域に属する事柄」など無いのだから、ほんとうに何やってもいいような状況など無い訳だ。
で、こうのようにローティを読んだときのローティの問題点は、では「私的領域」を措定する必要があるのか、というところだ。
勿論必要はある、と私は考える。
それはそのような措定が便利だからだ。
その詳細は・・・面倒臭いからもういいや。
後は誰かに任せた。
誰か任された人、自分の論文にまとめてください。
まあ兎も角、私はこの後者の読み方の方が、ローティの読み方としてより一貫性を持った読み方なんじゃないかと考えているのです。
まあ確かに或程度、テキスト以上の深読みをしてるということは認めないと不可ないだろうが。
もしかしたら明らかに間違った読み方なのかも知れない。
間違いではなかったとしても、そう読まなければならないということを示すような文献的証拠が足りない。
まあこれは私の不勉強が9割なんだが。
ローティの新しい論文集出たんで、買って読まなければならないっぽい。
でもなんかビミョウに高いんだよなあ。
アマゾンのショッピングカートには入っているのだが、次の発注のときに買うかどうかは分からない、という感じで。
で、まあ少なくともこう読んだ方が、ローティの公的/私的の区別が彼の哲学の体系の他の部分によく馴染む気がする。
これ修論に書けばよかった。
いつか書こうと思ってなかなか書く勇気が無かったのです。
クワッ、クワッ、クワッ、なハートなもので。
結構ダサイことはぱっと書いてしまう割にこういうところで尻込みしてしまう。
あと執筆をサボりすぎて時間も足らんかった。
つくづく駄目な学生だった。
2007/03/14
2007/03/13
外部記憶装置
風呂の中で何か考えていたのだが、何を考えていたのか忘れてしまった。
風呂の中で物思いに耽るのは、物思いに集中できる反面、手元に記録媒体が無い故、風呂から上がるまで考えていたことを覚えておかなければならないという難点がある。
而も私は非常に忘れっぽいので、多くの場合、何かいいこと思い付いたと思っても、風呂から上がる頃にはすっかり忘れてしまう。
因みに近頃枕元にノートを置くようにしたので、蒲団の中で何か思い付いてもメモがとれるようになった。
が、何か思い付いても、ライトを点灯したりして目が冴えてしまうのがどうもメンド臭くなって、結局何も書かないということが多い。
とか書いていたらなんかぼんやり思い出してきた。
我々若者の内の一人が個々に感じているところの我々若者全体についての像の特徴と、実際の我々若者全体の実態の特徴とは別のものとして扱うべきだ、ということを忘れてはならない。
例えば我々若者の内の一人一人が、仮に、「今の若者は自分以外の人間を馬鹿だと感じている、という特徴を持っている」と思っていたとしよう。
そして個々の若者がそういった若者像をも持っている、ということは、実際に若者全体に特徴的な事柄である、としよう。
然しこのことから「実際に若者は自分以外の人間を馬鹿だと感じている、という特徴を持っている」ということは導き出されない、ということに注意しなければならない。
というようなことを。
やっぱりあんまり「いいこと」ではないなあ。
風呂の中で物思いに耽るのは、物思いに集中できる反面、手元に記録媒体が無い故、風呂から上がるまで考えていたことを覚えておかなければならないという難点がある。
而も私は非常に忘れっぽいので、多くの場合、何かいいこと思い付いたと思っても、風呂から上がる頃にはすっかり忘れてしまう。
因みに近頃枕元にノートを置くようにしたので、蒲団の中で何か思い付いてもメモがとれるようになった。
が、何か思い付いても、ライトを点灯したりして目が冴えてしまうのがどうもメンド臭くなって、結局何も書かないということが多い。
とか書いていたらなんかぼんやり思い出してきた。
我々若者の内の一人が個々に感じているところの我々若者全体についての像の特徴と、実際の我々若者全体の実態の特徴とは別のものとして扱うべきだ、ということを忘れてはならない。
例えば我々若者の内の一人一人が、仮に、「今の若者は自分以外の人間を馬鹿だと感じている、という特徴を持っている」と思っていたとしよう。
そして個々の若者がそういった若者像をも持っている、ということは、実際に若者全体に特徴的な事柄である、としよう。
然しこのことから「実際に若者は自分以外の人間を馬鹿だと感じている、という特徴を持っている」ということは導き出されない、ということに注意しなければならない。
というようなことを。
やっぱりあんまり「いいこと」ではないなあ。
2007/03/12
哲学の仕事
忘れないうちに、ぶっ飛ばして書こう。
ぶっ飛ばすというのは、勿論書くスピードのことではなく、内容をぶっ飛ばすということで。
「さあ、飛躍するぞ!(論理の)」という感じで。
哲学の仕事ってのは、一つには、常識的な観念について説明したり分析したりすることである、と考えてみよう。
哲学に携わっていれば何かスゴい唯一絶対の「正解」だとかこの世の真理だとかに辿り着けたりする訳ではない。因みにそんなものが在ろうが無かろうが知ったこっちゃない、それは少なくとも哲学が問題にすべき問題ではないというのが私の哲学的立場だ。
ん?矛盾してないよねえ?
まあいいや。
で、のみならず、そういった種類の哲学では、恐らくは、若しあれこれよく考えた結果、どう見ても非常識であるような結論が出てきたなら、多くの場合は、その結論は間違った結論なのだ。
特に倫理学の仕事の結論は、少なくとも結論のところだけ見れば、恐らくは、常識と照らし合わせてみて、「ほう、そうか」と気付く、という程度で理解したり納得したりすることが可能なものなんじゃないだろうか。
常識とまるっきり逆の結論や常識と比較すると理解不能な結論が出たとすれば、それは多分どこかで間違っているのだ。
倫理学の仕事ってのは、倫理的に競合しがちな常識的諸概念について、その競合を分析したり解消したり解決したりすることなんじゃないかと。
因みに常識があれば倫理学なんて結局のところ要らないんだ、常識だけでいいんだ、と言ってるのでは勿論ないですよ。
そういや、我等がローティが言うには、哲学とか倫理学ってのは、現在既に在る倫理概念を分析したりするのは得意だけど、現在我々が被ってたり知らぬ間に共犯関係にされてたりする「残酷さ」を減らす為に新しい倫理的概念を創ったり新しい倫理観を人々に芽吹かせるという目的には、文学とかに比べてたら、まあ苦手かな、と。
これってべつに哲学が要らんという話ではない。
因みに、まあ苦手とはいえ、偶に哲学も新しい有用な倫理概念を創ったり創るのを手伝ったりすることもあるよなあ。
と、そういうようなことを風呂の中でふと思った、という話。
書いてみると、風呂の中で感じたより大したことない普通な内容でした。
ぶっ飛ばすというのは、勿論書くスピードのことではなく、内容をぶっ飛ばすということで。
「さあ、飛躍するぞ!(論理の)」という感じで。
哲学の仕事ってのは、一つには、常識的な観念について説明したり分析したりすることである、と考えてみよう。
哲学に携わっていれば何かスゴい唯一絶対の「正解」だとかこの世の真理だとかに辿り着けたりする訳ではない。因みにそんなものが在ろうが無かろうが知ったこっちゃない、それは少なくとも哲学が問題にすべき問題ではないというのが私の哲学的立場だ。
ん?矛盾してないよねえ?
まあいいや。
で、のみならず、そういった種類の哲学では、恐らくは、若しあれこれよく考えた結果、どう見ても非常識であるような結論が出てきたなら、多くの場合は、その結論は間違った結論なのだ。
特に倫理学の仕事の結論は、少なくとも結論のところだけ見れば、恐らくは、常識と照らし合わせてみて、「ほう、そうか」と気付く、という程度で理解したり納得したりすることが可能なものなんじゃないだろうか。
常識とまるっきり逆の結論や常識と比較すると理解不能な結論が出たとすれば、それは多分どこかで間違っているのだ。
倫理学の仕事ってのは、倫理的に競合しがちな常識的諸概念について、その競合を分析したり解消したり解決したりすることなんじゃないかと。
因みに常識があれば倫理学なんて結局のところ要らないんだ、常識だけでいいんだ、と言ってるのでは勿論ないですよ。
そういや、我等がローティが言うには、哲学とか倫理学ってのは、現在既に在る倫理概念を分析したりするのは得意だけど、現在我々が被ってたり知らぬ間に共犯関係にされてたりする「残酷さ」を減らす為に新しい倫理的概念を創ったり新しい倫理観を人々に芽吹かせるという目的には、文学とかに比べてたら、まあ苦手かな、と。
これってべつに哲学が要らんという話ではない。
因みに、まあ苦手とはいえ、偶に哲学も新しい有用な倫理概念を創ったり創るのを手伝ったりすることもあるよなあ。
と、そういうようなことを風呂の中でふと思った、という話。
書いてみると、風呂の中で感じたより大したことない普通な内容でした。
2007/03/10
2007/03/09
2007/03/08
ナチュラルキュビズム
いきなりペンで描くのには未だ早い。
鉛筆を使おう。
ということで、久しぶりに鉛筆でものを描く。
昔鉛筆でものを描くのを気に入っていた時期があったので、Hとか6Bとか、色々持っているのです。
絵は下手だけど。
鉛筆削りが欲しいところだ。
以前使っていたときはカッターで削っていたのだが、鉛筆削りがあった方が楽だし奇麗。
鉛筆削りなんか小学生以来なんじゃなかろうか。
然し私の性格上、そういう道具は持っておいてる筈なのでこの部屋のどこかにある筈だ。
一時間ぐらいかけて探した結果、無事発掘する。
で、まあ色々描いてみる。
鉛筆だと補助線が引けるし、間違ったところをさっと消せるので、大分描くのが楽。
色々描いてみた結果、簡単な構造の人工物ならそれなりに描けるようだ、ということが判明する。
ペットボトルとかイヤホンとか。
一応直線や円は或程度は描けるようだ。
もっと駄目かと思っていたのだが。
ナチュラルにキュビズムになるぐらい駄目かと思っていたが。
人物とかは未だ駄目っぽい。
自画像を描いてみたところ、紙面上に識らない人の顔が。
これが手配書なら逃げ切れる。
漫画の画の模写の場合は、「それを知ってる人なら判別可能」というぐらいには。
まあ要するに、まだまだな訳です。
まあそんな感じで。
鉛筆を使おう。
ということで、久しぶりに鉛筆でものを描く。
昔鉛筆でものを描くのを気に入っていた時期があったので、Hとか6Bとか、色々持っているのです。
絵は下手だけど。
鉛筆削りが欲しいところだ。
以前使っていたときはカッターで削っていたのだが、鉛筆削りがあった方が楽だし奇麗。
鉛筆削りなんか小学生以来なんじゃなかろうか。
然し私の性格上、そういう道具は持っておいてる筈なのでこの部屋のどこかにある筈だ。
一時間ぐらいかけて探した結果、無事発掘する。
で、まあ色々描いてみる。
鉛筆だと補助線が引けるし、間違ったところをさっと消せるので、大分描くのが楽。
色々描いてみた結果、簡単な構造の人工物ならそれなりに描けるようだ、ということが判明する。
ペットボトルとかイヤホンとか。
一応直線や円は或程度は描けるようだ。
もっと駄目かと思っていたのだが。
ナチュラルにキュビズムになるぐらい駄目かと思っていたが。
人物とかは未だ駄目っぽい。
自画像を描いてみたところ、紙面上に識らない人の顔が。
これが手配書なら逃げ切れる。
漫画の画の模写の場合は、「それを知ってる人なら判別可能」というぐらいには。
まあ要するに、まだまだな訳です。
まあそんな感じで。
2007/03/07
スケッチ
絵でも描いてみようかと。
絵が描けるようになりたい。
私はペンやら画材やらが好きな割には字も絵も下手なのです。
特に字は、独自の文字体系を成していると言える。
ナチュラル暗号化技術。
本人にもデコードできないこともしばしば。
まあそれでも描いたり書いたりは、好きなのです。
というわけで、安いスケッチ用紙を、一寸前に買ってきておいたのです。
ジャポニカの「らくがきちょう」みたいなのでもよかったのだけれど。
然し何を書いていいのやら。
取り敢えず、身の回りのものを、色々スケッチしてみたりしたり。
携帯電話とか。スピーカーとか。
真剣に現実を写し取るのは、頭の中にあるのを描くのに比べて、結構難しいものだ。
こういうのがぱっと描けると、格好良い。
普通の絵が描けるのは格好良いと思う。
ギターが弾けるのよりよっぽど格好良いと思う。
絵が描けるようになりたい。
私はペンやら画材やらが好きな割には字も絵も下手なのです。
特に字は、独自の文字体系を成していると言える。
ナチュラル暗号化技術。
本人にもデコードできないこともしばしば。
まあそれでも描いたり書いたりは、好きなのです。
というわけで、安いスケッチ用紙を、一寸前に買ってきておいたのです。
ジャポニカの「らくがきちょう」みたいなのでもよかったのだけれど。
然し何を書いていいのやら。
取り敢えず、身の回りのものを、色々スケッチしてみたりしたり。
携帯電話とか。スピーカーとか。
真剣に現実を写し取るのは、頭の中にあるのを描くのに比べて、結構難しいものだ。
こういうのがぱっと描けると、格好良い。
普通の絵が描けるのは格好良いと思う。
ギターが弾けるのよりよっぽど格好良いと思う。
2007/03/05
HartmannのSinfonia Tragica
おはやふございます。
昨日余りにしんどくて、寝てしまった。
最近発売されたK. A. HartmannのSymphonia Tragica
がどこにも売ってないのは何故だー。
私が昔テレビでやってたのをぱっと聴いた感じでは、「現代」的な感じとロマン的な感じが好い具合に混ざっていて非常に好かったのだが。
まあその辺は譜面の読み方で大分変わってくるような部分なんだろうけど。
従ってこのCDと昔テレビで見たのとでは、感じが違う可能性は十分にある。
まあいいや。
しょうがないからアマゾンで買おう。
ショッピングカートに入ってい給え。
Wikipediaに因ると、交響曲3番の前身になってるみたいね。
そしてアマゾン内のサーチエンジン、どうした訳か発売日順にソートしようとしてもちゃんと発売日順にソートされないのは何故だ。
発売日順にソートしてもトップに出てこないので、数日前まで、なんだ、アマゾンでは扱ってないのか、と勘違いしてしまった。
昨日余りにしんどくて、寝てしまった。
最近発売されたK. A. HartmannのSymphonia Tragica
私が昔テレビでやってたのをぱっと聴いた感じでは、「現代」的な感じとロマン的な感じが好い具合に混ざっていて非常に好かったのだが。
まあその辺は譜面の読み方で大分変わってくるような部分なんだろうけど。
従ってこのCDと昔テレビで見たのとでは、感じが違う可能性は十分にある。
まあいいや。
しょうがないからアマゾンで買おう。
ショッピングカートに入ってい給え。
Wikipediaに因ると、交響曲3番の前身になってるみたいね。
そしてアマゾン内のサーチエンジン、どうした訳か発売日順にソートしようとしてもちゃんと発売日順にソートされないのは何故だ。
発売日順にソートしてもトップに出てこないので、数日前まで、なんだ、アマゾンでは扱ってないのか、と勘違いしてしまった。
2007/03/04
ポスト・ポストモダン
簡略化して言ってみよう。
「ポストモダン」と呼ばれている運動というのは、一面的には、近代に支配的或はドグマ的だった価値観や世界観の分解と再構築であった、としてみよう。
特に近代的人間観の。
この説明は正しいだろうか。
デリダやフーコーのような思想家や或はポストモダン芸術に限って言えば、或程度は正しいように思える。
然し現代の日本の「ポストモダン」好きの思想家達を見ると、どうもこれは正しくないように思える。
その人達が使用している「ポストモダン」は、結局のところ、近代の価値や世界の分解でしかないように思える。
或は少なくとも、分解は好きだが、分解した価値の再構築には余り興味がないように思える。
だから面白くないんじゃないかと思う。
一寸簡略化し過ぎだが、まあ大体そういう訳で、日本の「ポストモダン」達は、そろそろ、自分達のポストモダンの成果を使って、そしてそれを乗り越えて、このポストモダンを経験した後の世界にも妥当であるような「価値」や「世界」や「人間」を再構築して呉れてもいい時機なんじゃないだろうか。
そろそろなんか面白いこと言えそうなんだけどなあ。
というようなことをここのところ考えている、という話。
「ポストモダン」と呼ばれている運動というのは、一面的には、近代に支配的或はドグマ的だった価値観や世界観の分解と再構築であった、としてみよう。
特に近代的人間観の。
この説明は正しいだろうか。
デリダやフーコーのような思想家や或はポストモダン芸術に限って言えば、或程度は正しいように思える。
然し現代の日本の「ポストモダン」好きの思想家達を見ると、どうもこれは正しくないように思える。
その人達が使用している「ポストモダン」は、結局のところ、近代の価値や世界の分解でしかないように思える。
或は少なくとも、分解は好きだが、分解した価値の再構築には余り興味がないように思える。
だから面白くないんじゃないかと思う。
一寸簡略化し過ぎだが、まあ大体そういう訳で、日本の「ポストモダン」達は、そろそろ、自分達のポストモダンの成果を使って、そしてそれを乗り越えて、このポストモダンを経験した後の世界にも妥当であるような「価値」や「世界」や「人間」を再構築して呉れてもいい時機なんじゃないだろうか。
そろそろなんか面白いこと言えそうなんだけどなあ。
というようなことをここのところ考えている、という話。
2007/03/03
2007/03/02
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