死ぬ程眠い。
前後不覚。
今日は朝が早かったので、昨日の晩、寝たら終わると思って椅子の上で凝と寝なかったのが不可なかった。
矢っ張り短時間でも蒲団で横になって寝ないと駄目だなあ。
只でさえ、私は一日10時間ぐらい寝ないと本気出ないような感じなのに。
LinuxをXPの入っているPCでデュアルブートすることにする。
98の入ってる、CD-ROM(CD-Rですらない)ドライブが付いている古いPCに入れようかと思っていたのだけれど、何を思ったのかインストール用のディスクをDVDで作ってしまいまして。
眠いのが不可ない。
まあお遊びでUNIX系の勉強でもしておこうかと思ってやってるだけなのでどうだっていいのだけれど。
UNIXを勉強するのは、哲学の勉強がイマイチ疏かなところで、まあ、逃避です。
Rubyも組み込んでみたいし。
が、インストール時になんかエラーが出るので面倒臭くなる。
動機がヌルいので、面倒臭くなるのも早い。
まあそんな感じで、ふらっと日本橋へ行く。
モニター切り替え器とかSDカードでも見ようかと。
SDカードはすっげー安いのが出てくるようになった。
1Gで2000円ちょいとか。
まあ買わなかったんだけど。
最近日本橋に行っても、難波のタワレコとジュンク堂の序でにソフマップで音楽系の中古機材を見に行く、というくらいであんまりうろうろしなかったので気付かなかったけど、なんか凄い勢いでモエモエっぷりが増しているような。
別にそのこと自体について嬉しいと言いたい訳でも悲しいと言いたい訳でもなく、それについて特に何か感想を持っている訳ではなくって、まあどうでもいいんだけど。
なんか、萌え、バブリー。
因みに、「萌え」ってのは、その語源においてどうだったかは兎も角として、「萌え系商品」とかいうときには、商品を開発する側の想像力や創造力の欠如を隠蔽して更に正当化する為の語のような側面もあるように思え、私にとってその点がゲンナリするところである。
単にコピーをつなげただけで「これがコラージュ芸術だ」とか「これがポストモダンの新しい価値体系なのだ」とか、コラージュ芸術家やポストモダンの思索家が聞いたら悲しむようなことを素面で言ってのける人の話を聴くときのゲンナリ感に似ている。
「物語が先にあるってその中に登場人物が描かれてゆくのではなくて、設定やキャラの方が先にあり、その設定やキャラが整合性を保つ形で物語が後から生まれてくる」という転換はその昔あったかも知れないが、どうも現状は、「オリジナリティ」という価値を打ち遣っておいて、以前から在るものを以前から在る体系に従って切って貼っただけの、『1984』の創作局でジューリア等がせっせと拵えていたようなものを、店頭に並べるときにそっと「萌え」と耳打ちすれば、「そうだ、これは萌えなんだ」と言って宛もそれが何らかの特別で重要な価値のあるものとして扱うに値するものとして売ることが許され、而もそのように扱うことが正しいことのように、「さあ萌えだぞ、是非買い給え」と言って意気揚々と販売されるだけのように思える。
量産される無内容なハリウッド映画やポップソングのような低級で低俗なエンターテインメントとしての体は成してはいるが、それは決して「じゃあそれでいいじゃないか」ということにはならない。
その場合の「ハリウッド映画」や「ポップソング」が決して褒め言葉ではないのと同様に、この場合、「萌え」も褒め言葉ではあり得ない。
美しくない。
確かに「萌え」の世界で新しい価値観は形成されたのだけれど、然しこのことは新しい価値観では決してない。
これらの代物を宛も新しい価値観によって価値あるものとされる代物として扱うということは、単に偽装の罪を犯しているだけではなく、萌えにまつわる本来の有意味な価値観を主張する人の顔に泥を塗るという罪まで犯している。
「因みに」が長くなってしまった。
まあ兎も角、萌え系な商品が今単にバブルであるだけなら、幾らかの店はそのうち、中身を変えないとしたら、潰れていくんだろうな、と思いながら通りを歩くのは、少なくとも余り素敵なことではない。
でも儲かってるところは儲かってんだろうなー。
あー、お金欲しーなー。
眠い。