2006/04/26

心の哲学モドキ

「私が時間t1の時点でAという心的状態にあったとしよう。
更にそのときの私の脳の物理的状態がA'であったとしよう。
それからt2にはBという心的状態にあり、同時にB'という脳の状態であり、またt3には・・・云々。
では、t1000000のときに私の脳の物理的状態がA'であることが判明したとき、そこから私の心的状態がAであることを推論することは妥当であるか。」
さて、私がAという心的状態にあるということは、誰が言いだしたことであろうか。
誰が、「オーメンは今Aという心的状態にある」と決めたのか。
誰がそう記述したのか。
オウケイ、ここでは仮に私がそうしたんだとしよう。
私は私の腹痛を騙されやすい人達に悟られないように振る舞うことができるが、そのとき確かに私の腹は痛く、私が自分の心的状態について報告しなくては不可ないときには少なくとも「私は腹が痛い」と報告するし、その報告は、私の演技に騙された周りの人が何て言おうと、正しい報告なのだ。
確かに私は私自身の心的状態の記述についてそこそこの権威を認められている筈なので、私が記述するのが妥当だろう。
でも本当に私に権威を持たせてしまってよかったのか。
少女Hは少年Kのことが好きなことは誰の目にも明らかだが、H自身は自分の気持ちに気付いていない、或はHは自分自身がKのことが好きだということが明確に意識に上ったことはないく、Hはいつも「あいつ(K)は嫌な奴だ」と言っているという萌えシチュにおいては、誰の記述がHの心的状態についての記述として妥当なものなのか。
Hの心的状態についての正しい記述は、恐らく周りの人による記述の方だろう。
然し我々はHの「あいつは嫌な奴だ(と私は思っている)」という報告は偽る意図のない正直な報告であるということは知っているので、Hは意識的には兎に角Kのことを嫌な奴だという信念を、兎に角彼女の意識の上では、持っているということを、その報告によって知ることができる。
ほう、しまった、話がややこしくなりそうだ。
信念というのは、その信念を持っている人がその信念の内容についてちゃんと意識して是認していなければならないっぽいが、心的状態はその心的状態に在る人がその人自身そのような心的状態にあるということを必ずしも意識できるている必要はないっぽい。
やばい、そろそろ綻びそうだ・・・。
で、じゃあ、この場合、心的状態と脳の物理的状態とを対応付ける目的には、Hの内省による報告を取るべきか周りの人によるHの心的状態についての記述を取るべきか、或はどっちも必要なのか、或は・・・云々という問題がある。

まあ兎に角、私が言いたかったのは、「心的状態」とはどういうことを指しているのか、そして、或心的状態についての記述がそれで正しいということはどのようにして成り立つのか、更に、正しい記述は一つに決定できるのか、もう一寸考えないと不可ないねーってことでした。


そろそろ書くの面倒臭くなってきたので私の議論のこの先の展開の方向だけ言って了えば(ここで議論を止めるのもちょいときたねーやり方な気がするが)、私はまあここでも物語チックでプラグマチックで意味の外在主義っぽいアプローチなんかをする訳です。
それから人の心を自分の脳の中に閉じこめておくのに抗ったり。なんかこう書くと胡散臭いけど。
で、茂木健一郎(クオリア大好きっ子)にたいなのも養老さん(唯脳論)みたいなのも全然駄目だなあ、みたいな話になるのです。

・・・なんかイマイチおもんねーな。
パンチが足りん。