2006/04/20

想像力の限界を予め規定される

主人公とその恋人か何かが街中でデカい声で痴話喧嘩みたいなことをしてるとしよう。
物語では、二人が何故そのように痴話喧嘩するに至ったのかが、読者が理解できるように、前もって何かしら描かれている。
で、まあ二人は痴話喧嘩してる訳だが、如何せん街中故、周りの人が二人を見る訳だ。
それがどのように見られるのか、痛々しいものを見るように、とか、うるせえなと迷惑そうに、とか、そういうことも、物語では描かれている。
然しその周りで観ている人達それぞれのペルソナは、決して描かれない筈である。
そうすることで物語の作者は、無意識的にであれ、周りで見ている人達それぞれの物語を読者の想像力の及ぶ範囲の外へ追い遣るのである。
自分がごく簡単な仕組みの所為で想像力を十分に発揮できていないのを発見するのは悲しいことである。
これが例えばフィクションでなくノンフィクションとして描かれたものだったらどうだろう。

「大衆」が存在するとしたら、それはどう足掻こうと「個人」へと還元し切ってしまわないものとして存在しているのだ。

ビアスの『月明かりの道』も芥川の『藪の中』も、或は『ハヤテのごとく!』も、つまり一つの出来事を複数の視点から見ることができたとしても、何の慰めにもならないだろう。

然し、ドーキンス流に言えば、このことを知ったヒトは、このことに抵抗することができる。これは慰めになるだろう。
慰めにならないのなら詩人は必要ない。