2006/03/25

ロマン主義、ナショナリズム、奈良

民主主義と、私が私自身をロマン主義の芸術家であると見做していることとが、私の思想の根幹を成しているのだと思う。
ロマン主義の芸術家は人間の「個」という性質を尊ぶ傾向にある。
私や他の個人が、それぞれの属する社会の単なる一部分に過ぎないのでなく、「社会の一部であること」から独立した存在価値を持っていると考え、それを尊ぶ。
「社会」というものは、複数の個人の単なる寄せ集めという点からだけで説明されるべきものではないと私は思うが、一方で、兎に角「社会」の構成員は個人であるということは忘れては不可ないとも考える。
誰か一人の個人の為に社会や社会の中の他の個人達を端的に犠牲にしてもいいという考えや、全ての個人について、社会や社会の中の他の個人達の為に個人を端的に犠牲にしてもいいという考えは間違っていると私は考える。
まともな民主主義というのは、金持ちであれ貧乏人であれ、全ての個人それぞれが主権を持っていると考えることであると思う。
無害なナショナリズムとは、このことと十分に共役可能なナショナリズムのことだが、有害なナショナリズムとは、誰かを十分な想像力の埒外に置き、自分達の為ならその誰かを不当に無下に扱ったりその誰かの本来持っている筈の主権を認めなくてもいいと考えることである。

私は両翼を持っていて、翼の左右の区別は実際にはあんまり必要ないんじゃないかと思っていたのだが、私の右側の翼が、右の翼だけを持っていると称する人達の翼と余りに違うことに驚いている。


ということを、うなされながら、熱に浮かされながら、雇用後二年間以内なら雇用者を理由無く解雇できるという新法に対するフランスの学生デモや、奈良の腹立たしい吐き気がする程愚かで恥知らずな糞条例案や、格差社会についての批判に対する我が国のSorryの「日本はセーフティーネット(必要最低限の生活を保障する)に配慮した社会だ」とかいう発言とかについてのニュースを見ながら考える。
この条例を考えた人は本当に義務教育をちゃんと受けたのだろうか。
「日本国憲法」とかいう言葉を一寸でも聞いたことがあるのだろうか。
我々は人間だ。義務教育で習う(筈の)この一番重要なことをどうか忘れて呉れるな。迷惑だ。

で、体の方は未だイマイチ回復せず。