2006/03/17

酢めし、音楽、ウンコな議論

酢めし疑獄、三巻まで読んだのだが、どうやら作者は私風情が受け入れることができるくらいまでシュールレベルを下げて呉れたようだ。
一寸は面白く思えるようになってきた。

昨日買ったCDを只管聴く。
でもちゃんと或程度集中して聴かないと理解できないので、結構苦労しながら聴く。
音楽を聴くのに苦労するってのは、なんか本来的でない音楽の聴き方のように思えるが、然し本来的でないということが即ち間違っているということにはならない筈だ。
我々には、音楽を聴くときの様々な目的に応じて、様々な聴き方が許されている。
本来的でない聴き方というのは、その許されている様々な聴き方の内で、殆どの人が承認するだろうと期待される或一定以上の正当性を持った聴き方が持っている特徴を持たないような仕方で聴く、そういう聴き方のことだ。
この「或一定」の範囲をどのように規定すべきかは議論の余地があり、何が本来的で何が本来的でないかについて議論するということは、実質的にはこの範囲をどう規定するのかということについて議論するということである。
間違った聴き方というのは、自らの目的の内で主なものや重要なものに反するような聴き方、或は承認し得ない目的を持って聴くことである。
或対象が「萌え」であると主張するということは、対象について「萌え」という語を用いることが承認されているということを是認することである。
然し自分が或対象に「萌える」と主張するということは、対象について「萌える」という語を使用するということを端的に是認するということであり、それは表面的には、語の使用についての他者の承認を無視できる、或は他者の承認に関する事柄を意識下に追い遣ることができる。勿論自分が本当に萌えているのか議論な成る場合は他者の承認を必要とするが。
良い音楽には他者に因る承認が必要だが、好い音楽については他者に因る承認は重要な問題ではない。
事実についての言及の正当性は社会的に構成されるが個人的な欲求や嗜好や目的についての言及の正当性は、確かに一面的には社会的ではあるが、正当性について問題が提起されるまでは他者の承認について考えることを必要としていない。
『酢めし』は面白いと私が感じていると私が主張するのに、取り敢ずは他者の承認を必要としていない。

音楽は「音を楽しむ」と書いて楽しんで聴くべきものだということが承認された事実であるにも拘らず、音楽を聴くのに苦労するということが私の求める目的を達成するのに必要であり、その苦労に因って当の目的或は他の重要な目的の達成を重大に妨害されるのでないのなら、それは間違った聴き方ではないのだ。

因みに脳味噌を使用せずにテキトーに書いてますので、現代美術級にぶっ飛んだ話の流れだし(否、流れなど無い)、まあ別にお好みで真剣に読んでも構わないけど、私が本当にこういうふうに考えているのだとは思わないように。ダダイズム。うんこうんこ。25%程度嘘が混じってます。うんこうんこ。更に25%自分の考えと逆のことを書いてたりします。うんこうんこ。酢めしが面白くなったのは本当。