2006/02/20

プラグマティズム、ニート、ローティ

「儂は勉強が全く足らん」と思い立ち、徹夜で只管本を色々読む。
本を只管読んで、一寸は勉強した気になろうと試みる。

プラグマティズムの思想』魚津郁夫
パースジェイムズミードデューイと、あとクワインローティが最後の方に少し。
結構解り易く書かれているように感じた。
特に私は今までミードに殆どノータッチだったので、結構役に立った。
ミードが私にとって魅力的ではないということが能く解ったし。
私はクワインについて「一応或程度は解ってる」程度なのだが、その私から見ると、ここに書かれているクワインは、よくまとめられているように見えた。
で、私はローティについては結構思い入れがあって結構解ってるつもりなのだが、その私から見ると、ここに書かれているローティは、「連帯」についての説明に「想像力」についての言及がない点とか魚津さんのローティ批判(「実在」の身分についての批判)が、よくある批判で、哲学のちゃんとした批判として結構良い線行ってそうに見える批判なのだが、ローティ主義者から見れば的外れな批判である点とか、不満が幾つか残るが、でも全体的には解り易くてよくまとめてあると思う。
まあ実在の身分についてはローティはかなり挑発的なこと言ってて始めは誰でも途惑いそうなところだし、「想像力」については、この本の参考文献に『偶然性・連体・アイロニー』がなかった点を考えると、「想像力」についての言及が抜け落ちているのもまあ不可解という訳でもない。
ということで、多分ミードについての言及も或程度信頼していいのだろうと。

アマゾン→魚津郁夫 『プラグマティズムの思想』

『「ニート」って言うな!』本田由紀・内藤朝雄・後藤和智
「ニート」って言うな!
以前このブログで「Kritik der Menschenkraft」という題で「人間力」とかどーしょーもないこと言ってる連中(而もそいつらは結構重大な発言力を持っている輩な訳だ!)に対する当てこすりを書いたときに、ニートの問題についての言及をしたこともあって、一寸気になってた本。
「ニート」という語には、現在の日本の多くの一般的なメディアにおいては「近年急速に増えつつある、パラサイトシングルで引き籠りで働く意欲のないダメな怠け者で日本の悪性新生物である若者ども」とか「「ニートは人間力が足りない」とか。「ニートは親の財産を喰って生きる穀潰し、働かざる者喰うべからず」とか。」(Omen、10/27、2005)というイメージで語られている訳なのだが、この本の曰く、バカメディアが垂れ流したクソ語彙をそのままのイメージで使ってるうちは、そりゃあんたら歪んだイメージを持たされちまってるんだぜ、と。
それから元来「ニート」って語は「NEET(Not in Employment, Education, or Training の略称。)とは無業者。雇用されておらず、学業もしておらず、職業訓練も受けておらず、求職もしていない無業者のことを指す。また家事手伝いもニートに含まれる。なお、しようとしているができない人(失業者や浪人など)や主婦・主夫、あるいは定年退職者などは含まれない。」(ウィキペディア)というぐらいの意味だったのだが、それが「引き籠り(この人達は家にいるだけでどういう訳か社会の悪性新生物扱いされたり、まあ善いようには見られない訳だが)」や「犯罪親和層(「ヘンタイ幼女嗜好のアニヲタでちびっ子達に悪さをするような奴等」とか「キレる若者」みたいなイメージ?本文中に確りした言及は私には見つけられなかったが、多分そんな感じの漠然としたイメージによって同定された人々のことを言ったるんだと思う)」という、元来の意味での「ニート」層の中に少数しか居ない人達の特徴をニート全体の特徴であるかのように漠然と、そして誤って(或は一部の人はわざとなのかも知れないが)まぜこぜに認識されてしまっている、と。
で、今や「ニート」という語は差別用語に成り下がってしまい、今現在「ニート」と呼ばれている人達の価値を不当に貶めるばかりなので「ニート」って語はもう使うな、と。
私は「Kritik der Menschenkraft」を書いたときには、「ニート」という語を元来の意味と今広く行き渡っている差別的含意とを区別せずに使用していたせいで、区別するよりも少々筋が曖昧になってしまっていた。悪い例。反省。

まあでも「ニート」って言っては端的に不可ないんじゃ、ニートにまつわる問題についてちゃんと議論できないので、矢っ張り「ニート」って言ってもいいんだけど、それは人を不当に貶める為に使ってはいけないという制限付きで、議論するときにはそのことに十分気を付けて議論しないとだめですよ、という感じでいきましょう。

この本で書かれていることは、ニートとして同定される人達を社会の不当な憎悪や不安の対象としてはならないという結論は私と共有しているのだけれども、それ以外では同意できる点よりもダメな点の方が目に付いた。
手放しにうんうん肯けない。この問題について議論の余地は未だかなりあるという印象を受けた。
議論のツメが甘かったり図が非常に拙かったり統計資料やグラフが不足している所為で説得力がなかったり。
まあ統計/グラフ関係は、キャッチーさを求めれば或程度は削らないと新書で出版できなかったのかも知れないが。テキトーな憶測だけど。

本田さんは「ひきこもりとか犯罪親和層ってのはニートのうちのごく一部の人です」とか言ってるんだけど、ニートを中心として描かれた若者の分類図では、「ひきこもり」と「犯罪親和層」が他の若者の中ではなくニートの中の「働く意欲がない」グループ特有の存在であるようにしか見えなかったり。流石にそんなこと意図してはいないだろうが、図として相当拙い。
また「ニートってのは結構どこでもいそうな普通の人なんだよ、だからひきこもり用に設計したプログラム使ったってダメなんだよ」ってことにばかりに注意が行き過ぎていて引き籠りの悪性新生物扱いについてはほぼスルーだったり。最後に微妙に「ひきこもりに対しては相応の支援が必要だということは認める」というようなことは一応言っているが、全く以って不十分だと思う。それに「引き籠り」とか「犯罪親和層」ってのが他のクラスでなくニートに集中している筈だというダメ物語もちゃんと救済しないと。引き籠りについての明らかに誤った事実認識から成る物語についての救済もないし。
というような感じで結構いろんなところがコンコン蹉く。

内藤さんの場合は、ローティとかハーバーマスとかテイラーとかブランダムとか・・・まあその辺の、プラグマチズムとか言語的外在主義とかその周辺の流れを汲んでる私としては、自由と教育についての内藤流リベラリズム的言説が、どうしても納得いかん。
まあ私も自由は大好きだし、或意味ではリベラリストなんだけど。でも特にテイラーは黙ってないだろうね。私の中のテイラーモジュール(本一冊分ぐらいしかないけど)が反応してしまう。「近代個人主義から未だ十分には逃れ切れていないんじゃないか」って。
ローティ風に言うと、恒に議論は続くべきで、教育ってのはその議論がちゃんとできるようになる為には必要なんだ、みたいな。
だから(?)私のブログに拙い点とか疑問とか見つけたら確っかり批判して下さい。キモいイタいとか言われたは普通にへこむけど、ちゃんとした悪意のない議論ならちゃんと応えたりしますよってに。メンドクサくなって応えないかも知れないけど。でも一応仮にも哲学の学生、ちゃんと応えていくスタンスで。

どうでもいいけどスマップは(まあ実際は「スマップが」ってわけじゃないけど、象徴的な語法ということで。スマップのメンバーとスマップファンに一応断りを入れときます)『世界に一つだけの花』で現代思想(ポストモダン。ポストモダン自体が今やイマイチだけど)に追いついたように見えるかも知れないが、あれはロマン主義萌芽期の最も稚拙な議論に追いついた程度で、そのスピリッツはカントシラーをすっ飛ばして現代にも部分的には受け継がれているものの、それがポストモダンだとか言ったらポストモダンの人達多分怒るぜ。因みに前文は私的言語で書かれた私秘性最強の私的メモですよってに、意味が解る方がおかしいのでここは無視って下さい。

後藤さんのは、「どうしようもない奴等集」という感じの、資料としては充実していて役に立つと思う。ニート問題について論文なんか書くときはこれはまあ使えるんじゃないかと思う。
私は多分書かないんでシランが。
でも題名が「「言説」-「ニート」論を検証する」となっているんだが、確りした検証はちゃんとできていないので後半の「「ニート」論を検証する」って部分は省いた方が適切だと思う。

全体としては「これからどうするべきか」関係の、未来に関する議論はどれもイマイチだったが、然し兎に角現状が非常に宜しくないということはよく解るように書かれていると思う。
結構すらすら読めるし。
それから、世の中には他にも良いこと言っている人もそれなりに居る筈なんだが、この本にはそういった人達についての言及がまるでなかったし、「この人の議論は結構良い線行ってるんだけど、ここがダメ」みたいな言及も出てこなかった。
そりゃ明らかに変なこと言ってる人を批判するのはお手軽で簡単なのには違いないし、内容を平易にするにはそれなりに効果のある戦略なんだが、これに終始してしまうと内容に厚みが出ない。
だから、この本は、変なこと言ってる人がいるということを知るにはまあ良いんだが、社会についてのちゃんとした議論としては全然面白くない。「ああ、そうか!」という知的驚きもない。

まあ、私は基本的には、彼ら彼女らの同じ結論を共有する仲間だと勝手に思ってるし、もっと確っかりやってくれと思ってるんで、哲学関係者らしい内弁慶さで拙い点をつらつら書いたんだが、この本は、私のこの記事からあなた方が受けるであろう印象よりは、まあそれ程粗悪な本ではないと思う。
「まあ金と暇あるなら読めばいいんじゃないかねぇ」ぐらいのお勧め度。
でも他のどうしようもないニート本とか買って著作者に印税を納めるぐらいなら断然これの方がいいとは思う。ダメ本を反面教師本として買うのはいいけど。
まあ、他のダメニート本って、本屋の立ち読み以外でちゃんと読んだことないのであんまりエラそうなことは言えないのだけれども。

徹夜でテンション上がり気味なのです。
ってもう四時!何時間起きてんねん!

アマゾン→本田由紀・内藤朝雄・後藤和智 『「ニート」って言うな!』


どうでもいいんだけど、「プラグマズム」じゃなくて、矢っ張り「プラグマティズム」なのかなあ。




2006/03/01
一応念のため言っておくと、ニート擁護派(?)の議論を読んで勘違いしてはいけないのは、ニートについての問題がこの社会には本当は存在していないんだと考えてしまうのは間違いで、問題は実際に存在しているということはちゃんと頭の隅に置いておかなければならない。
フリーターの増加率に比べてニートの増加率が低いからといって、ニートが増加していないと考えるのは端的に間違いだし、社会全体の就労就学問題についてちゃんと考えなければならないという考えが正しいからといってニートの就労就学問題を無視していい訳ではない。
現在の日本社会における「ニート」についての支配的な概念がおかしいからといって、ニートの問題設定そのものが全く事実無根という訳ではない。
実際に苦しんでいる人達が居ることを忘れてはならない。
何故その人達が苦しんでいるか或はその苦しみはどういった苦しみなのか等々を、ちゃんと考えれば誰だって納得できるような形で記述し、その苦しみの原因は何で、その苦しみを実際にどうやって取り除くのか或はその苦しみを取り除くのにどういう方法を摂るべきか、等々ということは、歴とした問題なのである。
従って、「私はニートの問題について心を痛めています」と主張する人を無批判に馬鹿にしてはいけない。
序でに言っておくと、実際に問題を抱えている人の数が存外少ないからといってその問題が取るに足らない問題になるという考えが間違っていることは、民主主義の教育をまともに受けた人なら誰でも知っていることであるし、このことについての教育無しにまともな民主主義は成立しないだろう。
まあ兎に角、馬鹿なことを言っている人は山程居るし、その馬鹿な主張を宛も説得力のある主張であるかのように騙る見るも無残な人達の中で権威や発言力を持っているくせに馬鹿な主張を素面でやってのけるキングサイズ馬鹿も居るが、その刺激の強さによって、本当に問題を抱えている人が居る事実やちゃんとした問題意識を持っている人が居る事実や聴くに値する主張をマスキングしてしまってはならない。
当然のことだが、何が問題で何が問題でないのかとうことについてはずっと意識し続けなければならない。