2016/11/07

怪談

近頃は怪談モノばかり読んでいる気がする。

そういやホラーとかゾンビはあんまし好きという訳じゃないんよな。
まあ伊藤潤二は好きだけれど。然し何故か楳図かずおはそうでもない。
或は胸糞悪い系とかグロテスクもイマイチピンと来ない。
積極的に嫌いという訳じゃないけれど、特に好きという訳でもない。
オーパーツとかUMAとかのムー的オカルトは割と嫌いじゃないし、妖怪は大好き。
水木しげるは言うまでもないにしても、諸星大二郎の妖怪ハンターとか星野之宣の宗像教授とかの民俗学風推理風冒険譚とかも好物。
或は推理小説なら横溝正史とか京極夏彦とか三津田信三とか。
この辺りのものに関して、私の好きなものとそうでもないものとの間の差異は恐らく、民俗学フレーバーの有る無しに拠る所が結構あるという気がする。

因みにスーパーナチュラル系は、少なくともそれが自分で信じているか信じていないか自覚的に判断可能な範囲においては、全く信じていない。
哲学的態度としては私は自然主義的/物理的実在論者ではないのだけれど、普段の生活レベルでは多くの場合で物理的実在論者が振る舞うように振る舞っている。
然し例えば私は幽霊なるものが物理的実在性を持って実在しているとは全く思わないが、だからと言って幽霊が見えると主張する人が全て明確な自覚を以て嘘をついているとは考えていない。
彼ら彼女らの幾らかには幽霊なるものが「見えて」いると考えて、或は虚偽の報告をする意図を全く持たずに「幽霊が見える」と報告しているのだという前提を置いて、「幽霊が見える」という記述や現象や事態を歴史的、社会学的、民俗学的、文学的、物理環境的、心理学的、生理学的にアレコレ想像したり解釈したりするのは面白い。
或は単に自覚的な虚偽の報告であったとして、その虚偽の報告を彼乃至彼女にさせた要因について色々と思いを巡らせるのも楽しい。
或はハードSFとして捉えたりね。
少しも信じてはいないけれど、結構好きなのだ。

で、最近怪談が好いという話。
古典的な四谷怪談とか或は都市伝説系もまあ嫌いじゃないんだけれど、まあ主に実話系ですな。
新耳袋系。
新耳袋というと、妖怪ハンターとか三津田信三とは違った風の民俗学フレーバーが感じられて素敵。
人から聞き集めた話を、予断や解釈が余り多く含まれないようにした文芸的自然主義風味に、然し怪談として、よく纏めてある。
怪談といってもあんまし怖い感じはしないんだけれど、それが好いんだろうな。

つうことで、新耳袋以降の実話系怪談を幾らか見繕って読んでみているのだけれど、未だコレというものを見つけられていない。
怖さの特色は色々と種類がありそうなんだけれど、怖さに関しては多分、私はそんなに重要ではないんだろうなあ。

私にとっては、一つには、読者である私が解釈する感じのが面白いんだろう。
多分、例えばおどろおどろしいのは好きだけれどズバリ怖いというのは別に、という感じなのか。
恐らくおどろおどろしさと怖さは別のカテゴリーで、広い意味での「怖さ」の中には「おどろおどろしさ」は含まれるんだろうけれど、怪談的怖さと怪談的おどろおどろしさは別扱いした方がいいのだろう。
ズバリの「怖さ」として表現してしまう手前の状態で留めてある感じがいいのか。
事実認識へコミットメントを良い具合に減らした記述が面白いのか。