2012/07/23

梯子を捨てよジャアナリズムへ出よう

夜の方が暑い。

-----
胡椒を挽くのにプジョーのミルを使っていた。
普通のじゃなくて、挽き具合をポーンの足の部分で調整できるタイプの。
調整が楽でいいやと思ってたのだがこいつがなかなかの曲者で、この機構の所為で粒の大きい胡椒が挽けなかったり胡椒の粒が詰まったりする。
なのでできるだけ粒の小さいものを使うようにしているんだが、少し粒の大きいのが混じってたりするだけですぐに詰まる。
使い始めの頃は工夫でどうにかなるんじゃないかと期待しつつ我慢して使っていたのだが、使う度に唯苛立ちが募るのみ。

ってことで、プジョーの普通のミルを買った。
普通に挽けて感動。
よーし、これででっかい粒の胡椒が使えるぜ。

因みにこれまでは粒の大きいのは京セラのセラミックミルを使ってたのだけど、これは岩塩用に転用。
鉄のミルだと岩塩には使えないしな。
岩塩のでっかい塊を買ってしまって、使う度におろし金で削るのは面倒臭いし、どうにも使い道が無くて困っていたんだ。
ピンクと黒の岩塩。
ピンクのは甘い。
黒いのは硫黄臭いが加熱すると大丈夫らしい。
良し。これでもう一つ片付いた。

-----
陽が落ちたら走りに行くつもりだったが、その時間になると少々体調を崩す。
不健康な生活と夏の暑さの所為もあるが、多分、朝からずっとカフェインてんこ盛りだった所為もある。
カフェインには弱くはないがそんなには強くもないようで、一気に取り過ぎるとしんどくなることがある。


朝飲んだのは水出し煎茶だった。
甘くて濁るタイプの茶葉を使った。
濁るタイプのはあんまし好きじゃなくて、買ったものの減らずに余ってしまっていたのをここぞとばかりに使ってみたのだが、茶葉の量を間違えていたようで、かなりの特濃だった。
而も水を足せば幾らでも出る。
勿体無いので飲んでは継ぎ足しをしていたが、1リットルぐらい飲んだところで流石に諦めて茶葉を捨てる。
煎茶茶碗に一杯飲めれば十分な代物だったのだが。

昼にはアイスコーヒー。
氷を詰めたコップにドリッパーを乗せて、細かく挽いた多めの豆でゆっくりペーパードリップ。
アイスコーヒーはここ暫くで色々試してみたが、結局私には水出しアイスコーヒーとかよりこっちのが好いことが判った。
これがでかいコップなんで、500mlぐらい。
そして特濃。

夕方には紅茶。
700ml。
ミルクティなんで濃い目。

という感じで、日没までにいつもより結構多い目にカフェインを摂取したことになる。

そういや紅茶は幾ら飲んでも大丈夫なんだが、煎茶とコーヒーは飲み過ぎると少ししんどくなることがあるんだよなあ。
ってことは或はカフェインの所為じゃないのかも知れん。
カフェインの結構入ってそうな栄養ドリンクとか飲んでも別に気分が悪くなったりはしないし。
序でにカフェイン摂っても睡眠にはあんまし影響しないし。
うーん。
そういや同じ緑茶でも煎茶はダメだが玄米茶ならOKな気がする。
うーん、余計判らなくなってきた。


-----
私的言語メモ。え?今までのは違ったのか?
一日の体験を可能な限り事細かに書き出すことができれば、それだけで一つの有用な作品を成すのでは、と思う。
それが優れた文学作品になる為にはもっと他にも色々と条件が付くだろうが、或一人の人間の或一日の身の回りの出来事や思ったこと考えたことなどの可能な限りの詳細な記録というのが存在すれば、それは少なくとも資料価値は高そうだし、結構面白いんじゃないかと思う。
まあかなり難しいとは思うけど。
ええと、つまり・・・。
何かがすっ飛んだヤツが面白いんじゃないかと。
その何かがすっ飛んでいれば、凡庸な小説家が書き抜かしてしまうような部分が現れるんじゃなかろうかと。
すっ飛ばしていると知りながらすっ飛ばすのだ。それはウィトゲンシュタインの梯子みたいな感じで登り切れば捨てていいものだ。
うーん、これは「直接性への憧れ」に似ているかも知れない。
或は根っこが同じなのか。
迂闊な人はその根っこから直接性へと向かってしまうが、私は違う方に道があるのを知っている。
芥川風に言うと、ジャアナリズムかね。
否、それは流石に芥川を好意的に引きつけて解釈し過ぎか。
でも実際かなり近いところに居るような気がする。
・・・。
というようなことを、凡庸な小説家の書いた文章を読みながらぼんやりと思った。

あ、芥川のジャアナリズムを今日の所謂ジャーナリズムと同じものとして捉えているのを見ることがあるけど、その解釈は多分成り立たない。

序でに梶井基次郎。
想像でものを言うぜ。
檸檬爆弾はテロか何かにはなっても正当な勝利の宣言にはなり得ない、ということを多分彼自身解っていたんじゃないかね。
彼のことを変な名前の檻に閉じ込めたのは後の人達だろう。その所為で理解が不可能になっているのだ。
因みに私の檸檬は外套の中で既に温くなって変形してしまっているか握り潰されているかで、それでそれもまあいいかなと思っている。いい匂いぐらいはしている筈だ。
そして私は顔を上げることができないまま京極を下っていくのだろう。
直接性への憧れを自分の中に見つけ次第潰しているのです。