2011/03/15

太宰治

例えば寄付について。
こういう大きな災害についての復興援助のように公共性の高いものに関する寄付で、信頼性のある機関が主催し、それなりに数多くの寄付者が見込める場合、たとえ少額でも寄付することには勿論意味がある。
児童ポルノ撲滅の為に(国連機関としてのユニセフ(→Wikipedia)でなく)日本ユニセフ協会(→Wikipedia)に寄付金を渡してしまうこととは大きく異なるし、千羽鶴を折って送りつけるよりその紙の代金分や送料分を寄付する方が少なくとも現段階においては(復興が或程度進んでからなら少し話は違ってくるだろうけど)意味があるように私には思える。
あと血とか。
私のような特に取り柄の無い貧乏人ができることといえば、(少額の)寄付か献血ぐらいだろう。
認めたくないものだな。だが実際そうだ。
そう言って苛立って八つ当たりしたり馬鹿なことを言ったりしないように気を付けなくては。
但、宗教家の賽銭とは違って、矢張り額が大きければその分役に立つ度合いも大きいので、それが貧乏人の辛いところだ。

日本赤十字社(→日本赤十字社)がそろそろ義援金受け付けの準備できそうな感じっぽい。
宝くじを買うぐらいの余裕は私にも無いではないので、宝くじを買ったつもりで寄付してみるのもいいかも知れない。
私のように普段寄付の習慣の無い人間も、これは一度やってみるいい機会かも知れぬ。
ニュージーランドのときもインドネシアのときもハイチのときも寄付に踏み切れなかった人も、より近いアイデンティティを持っているグループとかより多くの物語を共有しているグループの惨状により心を動かされるということは(それが倫理学上の論争を呼ぶものであることは暫く問わず)想像に難くない。
我々は普段、世界市民としてというよりもっとローカルな存在として自分自身を同定し、それに基づいて想像力を行使しがちだが、それは想像力をより広い範囲に拡げる為の土台の一部となり得るように私には思える。
勿論そこから想像力の及ぶ範囲を拡大するには他に何らかの努力か何かが必要だけど。
例えば「寄付」で言えば、今寄付をしてみれば、次にも寄付したくなり易くなりそうな気がする。

もう少し余裕のある人は、もう少し宝くじを買った気分を味わってもいいだろう。
ハズレくじを掴まされるのはいつものことだが、少なくとも心情的にはハズレくじを掴んだときよりはマシな気分になれるだろう。
或は潤沢な資金や人を動かす判断ができる立場にある人や特別な技術のある人はもう少し違ったアプローチが出来るかも知れない。
偽善だ何だと言って太宰治の下手な真似をして転げ回るのは後で落ち着いてからやれば十分だし、そんなところはさっさと踏み越えるべきだ。
序に言うと、寄付にどれだけ突っ込んだか自慢はおおいにやってもらって構わないだろう。
但しできれば他の寄付を誘発するような形で。余りお下品にならない仕方で。

そしてこれを機に日本に寄付の文化が根付けば、なんだか少しは楽しくなりそうな気がする。
私の人生がね。