今は昔。
「諦観」という言葉が好きだった。
その言葉を以てすれば、多くのものを外化できるような錯覚を持つことができる。
生活の外から自分の生活を眺めることができる気分になれる。
不干渉の観察者の気分が味わえるのだ。
それは心地好いことだ。
今は糞喰らえと思っている。
腕に絡まった蜘蛛の糸を嫌うように自分から諦観じみたものをはたき落そうとしている。
まあ性分が極端な所為もあるだろう。
或は諦観に立つことが許される程には、私は未だヨボヨボではないのだろう。
諦念の場所は、今は概ね未来への不安が占めている。