2009/01/04

ロイヤルミルクティとチャイ

久しぶりにロイヤルミルクティを作ったよ。
チャイとも謂うそうな。
私の認識では、少量の水で煮出した紅茶に更に大量のミルクを加えてもう一度煮出したのを漉したものをロイヤルミルクティと謂い、少量の水で煮出した紅茶に大量のミルクと砂糖を加えてもう一度煮出して漉したものに任意でシナモンなどを加えたものをチャイと謂うんだと思っていたのだが、近頃の喫茶店なんかを飲み歩いていると、どうも二つの違いが判らなくなってくる。
チャイの方が甘ったるくてコッテリしててデザート感の強いものだという感じで認識してたのだが。
同じものの英名とインド名とかなのかね。
でも、チャイを頼んでにシナモンが入っていても問題無いが、ロイヤルミルクティを頼んでシナモンが付いてくると妙な気分になる。

単にミルク多めのミルクティをロイヤルミルクティと書いているとこも結構あるね。
或はこれが正しいロイヤルミルクティなのだろうか・・・。

そういや昔、風月でネギ焼きを頼んだら普通のお好みにネギが少々付いてきただけで、こりゃ詐欺だろうと思ったことがある。
ネギ焼きといえば、お好み焼きの、キャベツの代わりに大量の青ネギを使ったものだという認識なのだが。
ネギ焼きとお好み焼きは別の食べ物だ。
これは多分合ってると思う。
因みにネギ焼きの方が格上感がある。
大抵、お好み焼きの値段にプラス200円ぐらいでネギ焼きになるからだろうか。
お品書きに「プラス200円でネギ焼きできます」的な。
まあどうでもいいけど・・・。

まあ取り敢えず、私が「ロイヤルミルクティ」と言ったら、それは「少量の水で煮出した紅茶に更に大量のミルクを加えてもう一度煮出したもの」或は「ミルクで紅茶を煮出したもの」を指していると思って頂ければ結構。

ロイヤルミルクティは、美味しく作ろうと思ったら、濃厚さや渋みのバランスを取るのが結構難しい。
昔よく作っていたので私にはこれという定式化された作り方があるのだが、その作り方の、細かい分量や火加減やタイミングといったことをすっかり忘れて了っていて、上手くできるか判らなかったが、臭いを頼りに鍋に付きっ切りで作ったら、結構うまくいった。
流石私。
美味ぇ、美味ぇな。
私が喫茶店でも始めたら、ロイヤルミルクティは目玉商品の一つとなるだろう・・・。

まあ私の性格上、喫茶店のような客商売はできなさそうだが。
学生時代は居酒屋やら酒を出すレストランのバイトなんぞをよくしたものだが、やっぱ私には向いてないと思う。

特に私の居たようなチェーンの居酒屋なんざ、客も社員もバイトも、誰も相手を一人の人間として扱わないようにと迫るようなシステムができているのは耐え難い。
悪趣味な掛声。
べとつく机。
決められたメニュー。
通行の邪魔になりながらティッシュを配る。
「ありがとうございました」
様々なお決まりのことがお互いの相手に対する想像力を奪い合い、お互いに諦めさせようとする。
然し注文を聴いて料理を運んでくるのは、生身の人間でなければならないのだ。
少なくとも、不気味でない程度に生身の人間に見えなければならない。
若し皆がお互い相手に十分な想像力を働かせて気遣いを始めたら破綻する、悪い「効率化」の為されたビジネスモデルの好例だ。

馬鹿馬鹿しい「身分」じみたものの温床にもなっている。
日本は平等で差別のない国だとか、憲法の条文を現実と誤認している人は先ず近くの大手チェーンの居酒屋に行って、気分でも良くなってみるといい。
飲食店、特に飲み屋の店員を、飲み屋の店員であるというだけで人間的に地位の低いものとして捉える狂った考え方は、茶髪=不良と考えることが普通に認められていた時代からさほど変わっていないことを、よく省みれば発見することができるだろう。
金を出す者が偉くてサービスを提供する側がヘコヘコすべきという考え方はバブル崩壊以降、寧ろ臆面も無く堂々と主張されるようになっているようにも思える。
堂々と「金払ってんだから心を売れよ」と言う訳だ。

何も要求しないことによって見かけ上の平和が保たれる世界は何もファンタジー小説の中に限られたものではない。
仮面姿が当たり前になっている世界や寧ろ仮面姿こそがほんとうの自分であるように求められる世界は、SFの中にのみ存在するのではない。
疎外は実存主義やマルクス主義の議論の中にのみ登場するものではない。
まあ居酒屋に限らず多かれ少なかれ日本中のどこにでもあることだ。
序でに言っておくと、どこにでもあるということが、それを諦めて当たり前のものとして受け入れなければならないということの理由にはならない。

我々は誰かを下に観ないと生きていけないぐらい脆弱な存在なのか?
恐らく私もミスを犯して(例えば議論や考え方を、ではなく)誰か人を不当な理由で人間として見下してしまっているということもあるだろう。
実際私は自分にそういう面を見つけて死にたくなることが多々ある。
然しそれは反省して正されるべきことであって、死にたくなるからといってあるがままを是認して受け入れるべきではない。
それは例えば「より良いものをより安く」といったような経済上の効率よりも明らかに優先して正されるべきことだ。

それに比べれば、一寸マシなレストランでバイトしたときはまだ人としての誇りを保てた。
つまり客商売では人としての誇りを持てないから私には駄目だとか、そういう失礼で間違ったことを言ってる訳じゃない。
誇りを切り売りすることを要求されている状態にある人が居るのは、何も客商売の間だけに限ったことではないし、それが客商売の限界だと言うつもりは毛頭無い。
逆だ。
そういう状態があればそれは是正されるべきだと言っているのだ。
或は人の誇りを助ける客商売というのもあろう。
そもそも職業に貴賎無しと謂いまして、どんな職に就いていようと、人としての誇りを持つことができるようにすべきだ。
「機会の均等」を単に就職機会の均等にだけ留めておく必要は無い。

向いてないというのは、私はコミュニケーションが不得手で、頑張ればできるが相当頑張らないとできないので、それで向いてはないと思う訳だ。

私が喫茶店でも始めたら(反実仮想)、最高のロイヤルミルクティってやつを淹れてやるよ!

なんか熱血料理漫画っぽくなったな。

トニオ上等。