2008/09/29

族議員(またの名を)

紅茶にミルクを入れ過ぎた・・・。
でも美味い。
飲みながら書く。


選挙カー。
住宅街をノロノロと移動する。
ホントどうかしてるよ、奴等!

また繰り返すぜ。

政治的活動の名の下に、只名前を連呼し、合間に当たり前の当たり障りの無いことを言う。
政策について話す訳でもなく。
何かについての批判を展開する訳でもない。
自分の名前を連呼して、騙され易い人達に対して既知感に由来するぼんやりとした好感を押し売りしようとしているだけだ。
只の心理トリック以上のなにものでもない。
政治的活動のふりをしているだけで、政治的に何の役にも立っていないだけでなく、人を馬鹿にした行為だし、明らかにうるさ過ぎる。

暴走族の連中は夜中に走るが、センセイ方の奴等は昼に走る。
他に違いがあるとすれば、動く金の単位ぐらいだ。
少なくともどちらも政治的活動とは認められるべきものではない。
確かにどちらも「主張」を微量含んではいる。
そしてどちらも歓迎されるべき主張の仕方とは言い難いし、どちらも「我が」という私的な主張であり、公的には取るに足る主張ではない。
煩さも多分大体同じぐらいだ。
音量は選挙カーの方が多分上だろう。

慥か選挙カーで何dB以上出してはいけないとかいう法律か何かがあった気がするが・・・。
その基準が甘過ぎるのか、その基準が実際には守られていないのかは知らないが。
問題はそこではない。
政治家が選挙に向けて有権者を説得しようとするときに、只心理学トリックを使って自分に票を入れさせようとするだけで、例えば自らの政策を説明するというような理性的で人間的な説得の方法を採らないことが問題の一つのポイントだ。
もう一つは、やっと気温が下がって窓を開け放って気持ちいい日曜の昼間をぶちこわす、音量の煩過ぎること。
奴らは窓を開けてるのを狙ってるんだろうけど。

祭りじゃねーんだから。
奴等は祭りのつもりかも知れないけれど。

これが日本に一般的な選挙活動だとすると、「日本は政治が三流だ」と自ら言い続けて一向に改善しないのも能く理解できる。
誰も政治の話をしないのだから、誰も政治のことが分からない。
恐らく大体の人が、誰が何をするつもりなのか結局分からないまま投票用紙に名前を書かなければならない。

政治家は居ないのか。
括弧付きの「政治家」はすぐに見つけることができるが。

我々有権者には幾つか方法がある。
一つは「あずまきよひこ方式」、即ち、名前を連呼するだけの立候補者をリストアップして、その候補者に票を入れないようにすること。
然しこの方法は、結局毎回白票を投じなければならないようになる可能性があるし、余り直接政治に関わるような方法とは言えない、という問題点がある。
それと、それなりに大人数が「この方式を採用するぞ」と宣言しないと、余り効果が見込めない。

そこで提案なんだが、「選挙の立候補者が選挙カーで活動するとき、自分の名前を10分間に2度以上言っては不可ない。自分の所属する政党の名前を5分間に2度以上言っては不可ない。罰則有り。」という感じの法律を作ってはどうだろう。
実際馬鹿馬鹿しい法律だが、この際或は必要なんじゃないのか?
あと音量の規制は、残念ながら、強化すべきだろう。
少なくとも奴らが政治的に有意味な発言ができるようになるまでは。

できれば、候補者が政治的に有意味な主張をし、その主張が有権者に受け入れられて初めてこの候補者が当選するような選挙システムを考案できればいいのだが。
それが選挙に関する普通の民主主義の一部だ。
それでやっとスタート地点に立てる訳だ。
我々はスタート地点にも立っていない。
選挙管理委員会を使った他人の椅子取りゲームに参加しているだけだ。
而もその椅子取りゲームの勝った負けたが我々の生活に重くのしかかっている!

よく勘違いしている人が居るようだが、日本は確かに民主主義国家ではあるが、そのことが正しいとすれば、絶対王政辺りに比べればそれなりに民主主義国家であるという程度において、だ。
この場合の「民主主義国家である」ということは、十分に民主主義が行き渡っているとか、理想的な民主主義を体現しているというようなことを全く含意していない。
それどころか、普通「日本は民主主義国家である」という言葉からぼんやりとイメージするのよりは全然民主主義とは言えない、ぐらいに思っておけばいいだろうと思う。
普通に「日本は民主主義だ」「平等だ」「自由だ」と言うときイメージしているものに未だ少しも辿り着けていない。

例えば、教育を受けている途中の少年少女達には信じられないかも知れないが、未だに差別主義者がテレビで堂々と差別発言をして、それで大の大人の誰もそれを差別発言だと思わないようなことだって、非常に頻繁にある。(差別発言は、多くの場合、発言した人がそれを差別的だと認識していない点に問題があるものだ。例えばニートの自虐ネタがネタとして苦笑できることは、他人がニートを社会のゴミ扱いして嗤う(のを見て笑う)こととは違う。)
ニートに引きこもりにアキバに外国人にロリコンに貧乏人に精神病に・・・キリが無い・・・に対する。
少年少女よ、よく感じ、よく勉強し給え、或は大人になってもその程度の理解力と想像力という悲惨が待っている。
未だに精神病について、テレビ局の、まともな理解に基づく番組の作れないことには驚きだ。
おっかなびっくりで、更に間違っている。

「奴等は弱い、我等は強い、差別することを恐れるな」と自らの自尊心と支配欲とを鼓舞する訳だ。
唯それだけの為に。
報道とか。
反吐が出る。

報道の自由とは、曰く、2+2が5になると放送したり出版したりする自由だ。

人が自由から逃走するのを助ける逃がし屋としては確かな腕を持っている。