2008/09/01

紫式部、或はナボコフ

アグネスチャンは、あれは酷いな。
空想と現実の区別が付いていない人も本当に居るもんだなあ。
私は今まで彼女に注意を払っていなかったので、彼女については、なんかネット上で色々言われているようだけれど日本ユニセフ協会に名前を利用されてるのかなあ、ぐらいの感想を持っていただけなのだけれど、実際に彼女自身があれ程酷いことを言ってる人だったのか。

昨日深夜眠れずテレビを点けたら、彼女が講演していたので、観てみた。
途中まで観てその他者に対する想像力の余りの欠如に拠る憎悪を見て吐き気がしたので消してしまったが。
アウシュビッツは終わらないばかりか繰り返される。
その前にBSか何かでチョムスキーが教育と民主主義についてのインタビューに答えていたのを、殆ど見逃してしまったのだけれど、最後の方だけ観ることができたのだが、それと好い対照となっている。

私がバアッと聴いた感じ、チャンの主張というのは、ロリコン的表現法的に規制するとき、その表現媒体がどういったものであれ、或はその表現が実在する子供についてのものであろうとなかろうと、その規制が子供を性の道具として扱っているような表現に対して適応される場合(またその場合に限り?かどうかは私には判らなかった。余りの暴論に、浅はかで浅ましいことに、腹が立って耳が曇って聴き逃したのかも知れない。然しここはチャンの議論の性格を特徴付ける為には重要なポイントなんだけど。)、その表現を規制する法は表現の自由を実際に傷つけるかどうかは兎も角、表現の自由を傷つける意図は無いので、十分な正当性を持つ、というものだ。
勿論これには実在しない子供を扱うポルノ表現が実在する子供を扱うポルノにまつわる被害の一つの原因となっている、という(単なる連想ゲームにしか見えないような)因果関係が存在する、ということが前提として含まれている訳だ。
あそう。

確かに議論に慣れていない人や今までこの問題に関心を持って考えてこなかった人には、感情的に受け入れ易い物言いかも知れないし、結構多くの人がこれを受け入れてしまうだろうということは想像が付し、マスメディアがこれを扱う場合はチャン方式の感情的に受け入れやすい方を選んだり、こういった議論の訓練を全く受けていないコメンテーターが適当なことを言って世論がそれに乗っかって、日本流に「合意がでっち上げられ」、法律制定というシナリオも容易に想像できる。

嗤いながら首を絞める手にグッと力を入れる。
弱い者を殺すことで征服感と優越感を味わう。
蟻を潰すように。
ありはわるいやつらだからいいんだ。

自分の首を絞めることをためらわないのはそれが自分の首だと判っていないからだ。
感覚も麻痺しているんじゃ、もう遅かろう。

現代では飢饉でなくても誰かがにやけた人身供養の捧げものにされ続けなければならないのだ。
これまでも続いてきたし、いつまでも続く。
ずっとだ。
最近ではパラサイトシングル、引きこもり、ニート、少年犯罪、ネット、オタクとアキハバラ、犯罪を犯した者(被害者の観点からのみ)・・・に次ぎロリコンと来る訳だ。
うんざりだ。
うんざりだ!

然しそれでも私はチャンのしたような差別主義を或は嫌悪感を表現することそれ自身を法的に規制すべきではないと思う。
特定の人達の名誉を著しく傷つける行為としては規制され得るかも知れないが、あのような嫌悪感の表明(例えば「あいつらマジキモイし犯罪者予備軍だから法律作って『あいつらを罪を犯すことから護ってやろうぜ』」といったような。これはニートについてよく謂われたことだ。)だけでどうなるのかは私の法学の知識不足。
そういうふうに「表現すること」は悪趣味なものとして社会に受け取られて糾弾されるなりするべきことであって、それに国家或はそれに類する力が介入することで、表現することが違法であり処罰の対象であるものとして扱われるようにするべきではない。
権力が表現を規制しだすと取り返しのつかないことになるだろう。
勿論差別を無くす方向に努力しなければならないのは私が言うまでもない。
一応注意しといて欲しいが、これは彼女のように大真面目に差別主義を唱える人物が(差別主義者は大抵いつだって大真面目だ)世の中には何かカンフル剤緩衝液かのようなものとして一人は必要だということを私は言っているのではない。
それから明らかに間違っていることを正しいことのように主張すること、或は嘘の主張をすることを「表現の自由」の一つとして認めている訳でもない。
単なる嫌悪感の表明は辛うじて容認できたとしても、その嫌悪感が(特にそれを単なる嫌悪感だということを知った上で)誰かの人間性を否定したり誰かを差別する正当な理由となると主張することは容認できない。
それから序でに言っておくが、私自身は、自身の将来等についての十全な判断力を認められていない実在の子供をポルノに出したりそれを流通させることについては法的な規制が必要だと思う。
また単純所持だけで違法となるような法律を作るべきではないと思う。

社会が間違ったことを程々に糾弾しなければならない、という点は注目すべきだ。
社会にその能力がないことを嘆くのも、それはそれで気持ち好いかも知れないけれど、そういう社会にしなければならないということを忘れては不可ない。
まともな民主主義の基礎の一つだ。
その為には普通教育が必要だし、その他色々なものが必要だ。
我々は色んなことを知っていなければならない。
他者の苦痛についての知識然り。
虐げられている人々についての物語然り。
虐げている方の人についての物語然り。
それらを統合する理性や想像力然り。
等々。
どれが抜け落ちても片手落ち。
これは表現の自由を擁護する理由の一つとなり得る。
然しそんなことは一つでしかない。
こんな駄ブログでは書き切れないような沢山の理由が表現の自由を支えている・・・。

美的観点から言うと、例えばブルースなんざ、ちびっ子の頃聴いても退屈なだけだろうが、それなりに長じてからは、あの単純な形式の中に無限の感情の機微を見出すことができるようになる。
或はベートーベンの大フーガなんて、音楽を聴き慣れていない人が聴いてもあのゴリゴリヌラヌラとした醜い人間の美しさを理解することは殆どできないだろうが、ちゃんと聴けばそれに圧倒されるものだ。
或は三島の文学然り。私は嫌いだが、あれはあれで一つの到達点だ。
ラファエロにピカソ。
単純な美しさだけが美ではない。
我々は皮脂やら涙やら鼻水やら唾液やらその他の粘膜やらの、湿り気を帯びてヌラヌラとした醜いような美しいようなものを持っているのだ。
自由な表現者の目は、鑑賞者の目を新しい次元へ導くことで豊かにする。
豊かな目は人間についての知識を増やし易くしるし、想像力を助ける・・・。
そして新しい目を持った表現者はどこにいるか解らないし、どこからでもヒョッコリ出てくるものだ。
出易い環境と出難い環境の差はあれど。

ヌラヌラした人間臭のする美しさが大事なのだ。
ブルースも聴けるようになる訳だ。

自由とは2+2=4だと言う自由だ。
2+2=5と言う自由ではない。
これが容認されなければ他のことは一切容認されない。

表現を規制するチャン案や最近の知識と考えの無い国会議委員の案では、間違っていたことに気付いたときには取り返しのつかないことになっている可能性が大きいとか、法を悪用されないようにするプランが示されていないとか、誰が規制の基準(例えば或表現を「子供を性の対象としてしか見ていない」表現だと判断する基準)を決めるのか、どう決めるのか、そもそもそれを決めるのか(任意に判断されるのか)、といったことに関する実務上の問題点多数もある。
表現を取り締まることでチャンが思っているような効果が本当に期待できるのか、期待できるという理由は何なのか、ということが明確でない、という点も実際上の大いに問題だ。
実在する子供を扱うポルノにまつわる悲劇や被害が、チャンの謂う所の「子供を性の対象としか見ていない」ような表現の実在しない子供を扱うポルノによってもたらされる、という因果的関係付けに只の連想ゲーム以上の正当性があのか、或はその因果関係を正当なものだと言う為の、単なる感情論や山勘でない、ちゃんと理解すれば誰でも納得できることが見込まれるような正当な理由を提示する用意はあるのか。
そして、結局のところ、唯、自分が持っていない(或はそう思っている)性的嗜好に対する嫌悪感、或はもっと一般的に、自分には説明できないものに対する嫌悪感から、なんとなく言ってるだけなんじゃないのか、という疑いを晴らすことは未だできていない。
そもそも規制することはまともな民主主義に適うことなのかという、理念上の問題もある。
未だ色々問題点はあるが、キリがない。
問題点というよりは駄目な理由と言った方が正しいか。

駄目だ、寝る。