2006/09/18

市民的不服従ライセンス

前の記事の補足。
因みに私のアイディアは、クリエイティブコモンズがやろうとしていることとはちょーっと違うのよ。
同じくコピーレフトの概念から派生したものだし、大分似てはいるけど。
私の「コピーレフト音楽」の場合は、ライセンス形態はできれば一種類で統一したいし、クリエイティブコモンズのライセンスは大雑把過ぎるので、もう少し細かく規定したい。
例えばクリエイティブコモンズの言うところの「帰属」は三次著作物まで有効にすべきかとか。私は必ずしも有効にすべきとは思わない。
或は商用利用する場合に元の著作者に了解を取るべきかどうかとか、商用化された場合の著作者人格権をどうするかとか、商品化してジャスラックなんかに登録したりしたものと非商用のものが同じソースを利用している場合に非商用利用者に火の粉が飛ばないようにするライセンスの仕組みを考えたりとか。

因みに日本では著作者人格権を放棄することができない可能性があるそうだ。
私は一次著作者に無断で二次著作物を創造することを念頭に置いているので、若し放棄不可能だとしたら、例えば第一次著作物の一部を使用した二次著作物や三次著作物を公開することが、一次著作物の著作者の気まぐれで、違法となったりする可能性があったりする訳だ。
まあ今までLinuxやらウィキペディアやらがこんなに発展してこれたのだから、あんまり気にすることでもないかも知れないけど。
やるなら一寸した市民的不服従の気概が必要になるかも。

打ち下ろすハンマアのリズムを聞け。(『侏儒の言葉』芥川龍之介)
岩波文庫の表紙で平出隆が、これを芸術が永遠に滅びざることを表現したものと解釈しているが、それでは全く不十分で、余りできの良い解釈ではないように思える。
私の(そして恐らくは普通の)解釈ではこうだ。
芸術は常に民衆の中に芽吹くのであり、それ故に滅びないのだ。