2006/05/02

カンブリア、質問、スーフリ

竹中平蔵(現在総務大臣やってる奴)曰く、
「吉田松陰の頃は改革やるっていうと殺される覚悟しなきゃならなかったのだけど、今では改革って言うと批判されることはあっても殺されることはないからね。自分のやりたいことをやりゃ良いんだ。今はそういうことができる社会だからね。」
と。(fromカンブリア宮殿、テレビ東京系)
まあ正確にこの通りではなかったとは思うけど、意味的にはそんなことを言っていたかと。
つまりこういうことだ。
「改革」とか言ってどんなにむちゃくちゃやって批判されても、殺されることはないんだから、自分のやりたいようにやりゃ良いじゃん、と。
なんてスーパーフリーな奴だ!
勿論厭味を言っているのです。

因みに「スーパーフリー(略称:スーフリ)」ってのは早稲田大学に昔あったイベントサークルで、その幹部等のメンバーが集団で強姦や暴行などやりたい放題やった咎で御用となったことで有名になったのだけど、当時メディアで「奴等、スーパーフリーとか言ってるけど、それは「自由」という概念を勘違いしているんだ」というような面白くもないギャグ(勿論皮肉を言ってるのです)がよく言われたんだけど、それに対して我々の仲間内では「否、そうじゃなくって矢っ張りスーフリの連中はある意味で適切なネーミングをしたんだ。やりたい放題やっていた連中は、自由を越えて何か訳の解らないものになってしまったんだ。」といって嗤ったものだ。こっちの方がギャグとしてまだ冴えてるだろ?
一応念のため言っておくと、「スーパーフリー」というサークルに属していた人が唯そのサークルに属していたというだけの理由で他者から不当に扱われるべきでないということぐらいは解ってますよ?断わっておかなければならないのだけれど、私は唯「スーパーフリー」という新しい(?)概念についてのみ話しているのです。
まあ兎に角、私が或対象に「スーパーフリー」という語を用いて語るときは、その対象が「やりたい放題、どうしようもないことをしている」という信念を私が持っており、その信念を表明しているということを意味しているのであって、その語は実在したサークル名としての「スーパーフリー」を意味しているではない。
・・・回りくどい。而も一寸間違ってるクサい。
要は「スーフリ状態」は「規範を無視してどうしようもない馬鹿なことをやりたい放題やっている状態」を意味する。
そして私が「スーパーフリー」という語をこの新しい(?)使用法で使用するときは、サークル「スーパーフリー」やそれに似たイベント系サークルに加入している人或は加入していた人で、特に罪がある訳でもない人を不当に軽蔑する為に使用しているのではない、と。

因みにこの「カンブリア宮殿」、それなりに良い番組らしく、注意して見れば、竹中平蔵が地方の人間なんかどうなってもいいと考えているということがよく解ったし、地方救済プランについて何も考えてはいないということも非常によく解ったし、彼がそれなりに的を射た質問をどのように逸らかすか(顕著な例で行くと、「その質問に答える前に、じゃああなた(質問者、地方公務員の人)はそのことをどう考えているのですか」と質問者に訊いたりとか)ということもよく解った番組であった。まあ肝心の質問は、逸らかされてそれっきりなんだけど。

質問といえば、『ご臨終メディア―質問しないマスコミと一人で考えない日本人』という本がある。
森達也と森巣博の対談。
森達也ってのは、ドキュメンタリーの『A』とか録った人で、森巣博ってのはあんまり知らないのだけど、自称博奕打ちの作家といった感じかな。まあアマゾンとかで各自調べて下さい。『A』は、面白いのでツタヤで借りて観ること。
で、この本。
対談なので、主張がきっちり理論化されて提示されている訳でもないし、話が逸れていったりするし、何か凄い白熱した討論とかきっちりした結論があったりする訳ではないのだけれど、現在の日本の新聞やテレビの報道が如何にうんこな状態にあるかについて、兎に角森達也氏と森巣博氏の視点から見るとどう映っているか、彼らの見解が能く解るように書かれている。
私も「ニュースを(あんまり)見ない若者」なのだけど、だってニュースなんか見ていると、吐き気がしてくるからね。
sorryにはまともな質問すらできないくせに弱いものいじめは率先してする記者とかのしたり顔なんかを見るのは非常に気持ちが悪い。
どうやらこの本によると、あの御方々は自分達がまともな民主主義を築く上で重要な役割を果たしているということをどうもご存じない御様子で、ってゆーか寧ろ自ら崩壊させていることすらお気づきでない御様子ですから。
わざとやってるのじゃないってところがうんこで泣ける酒とブルース。
自分が何やってるかも解ってないので、あの御仁方、良心の痛みようがないのだ。
うんこうんこ。