2005/12/13

マーラー、ベートーベン、シラー、カント

マーラーは一つの部品で一つの主張をする。
従ってどの部分もそれぞれ各々自身の主張を持っている。
然しベートーベンの場合はそれぞれの部分同士が相補い合って初めて意味のある主張を成す。
一つの部分が他の部分の前提や条件になっている。
楽譜で見るところの部分と部分の「縦の」繋がりも意識しなくてはならない。
逆にブルックナーなんかは縦の繋がりは適当に無視して構わないが、或一定の塊がどう移り行くのかということに十分注意しなくてはならない。
シェーンベルクは全体を無視して事態もっと細切れにして、その細切れ同士の移り行く姿を見なければならない。

マーラーがシラーならベートーベンはカントだ。

なんでこんなこと考えてたんだっけ。
恐らく、私が風呂の中で次のように考えていたことがきっかけになっているのだろう。
つまり、例えば第一交響曲の出だしなど、マーラーが譜面に音符を記入しているとき、自分のイメージがそのような音符の並びになるのは誰から影響を受けてなのかを明確に意識していれば、もっと旋律をぼやかしてしまっていたかもしれない、というように。
マーラーは既存のモチーフをこねくり回す癖がる。
然しそれは、或は意識的にしていたのかも知れない。
マーラーの音楽の解り易いさは、或はその所為かも知れない。