2005/11/11

財力が削られていく恐怖

何となくカサビアンが聴きたくなって、買いに、タワレコに行く。
ケイトブッシュとボールドオブカナダとビョークを序でに買ってしまう。
ボールドオブカナダはそのうち買おうと決めていたのだが、ケイトブッシュとビョークは買わないつもりにしていたのに、何となく勢いで買ってしまった。
ビョークの、初回盤限定価格1980円というのが売ってたので、それで勢いづいてしまった。
他にも買うべきものは幾らでもあったように思うが。勢い、あな怖ろし。
財力が削られていく恐怖。
「所持金を考慮に入れて、目的の、カサビアンだけ買う」ということが何故私には出来ないのだろう。
いつも、あれもこれもと、そんなに欲しくもなかった筈のものまで買って、出費がかさむ。
要らないものを買わずに、財を温存して、「グードによるベートーベンピアノソナタ全集」みたいな高価だがどう考えたって欲しいものを買えばいいのに。
ジャケ買いとか衝動買いは、金の無いときは、自分が何を求めているのか分らないときとか、欲しいものは全て手に入れた後で更に新しい刺激が欲しいときにすればいいのだ!

まあケイトブッシュもビョークも、想像してたよりもまあ好かったので、今回は可として。
もう一寸不自然で「実験的」な感じになってるのかと思ったのだが。流石にそんなことはなかった。

因みに「実験的」ということに関して言うと、思うに、全く実験を経ていない、既に誰かのやったことの権威に毒されたように只何となく諾々とした態度で作られた、在り来たりの音の羅列の単なる一ヴァリエーションに過ぎないような、音楽として聴くに堪えないようなものの持て囃されることがある昨今、一方で、唯実験することのみに終始していて、兎に角実験精神に関しては賞賛に値する程力強いかも知れないが、音楽としての価値に欠けるものも確かにあり、またその音楽的価値の無さを打ち遣っておいてその実験性さえ十分にあれば、音楽なんてどうでもいいと考えている人達によって、宛も音楽として素晴らしかのように持て囃されるということも確かにある。推敲面倒い。つまり「実験」という言葉を付け加えれば何だって誉れ高いものとして許されるんだと考えている節のある人達が居る。また「実験的である」とか「難解である」という音楽に関する属性が、それ自身音楽の価値を高めるものなのだと思い込んでいる節のある人もいる。
こういった人達は「実験」という語の使用の仕方を(「実験」という語に何か全く新しい特別な意味でも与えているのでない限りは)端的に間違っているのである。
私が上で括弧付きで「実験的」と書いたのは、このような考えを揶揄してのことである。
私が音楽に関して実験精神を重んずるのは、その実験精神が音楽を、新しく、刺激的で、自分の表現しようと求めていることを巧く表現出来るようにし、より良くする、等々の場合があるからであり、音楽を自分がしようと求めていたように出来なかった実験は、無意味だった実験或は失敗した実験なのであるということを忘れてはならない。実験なんてお家でやって呉れ、と。芸術家が求めるべきは実験そのものではなく実験することで得られることが求められているような成果の方である。例えばこのような文脈において「芸術家は実験そのものを求める」と言ったとき、この文中の「実験」という語の意味するところは、一般的に使用されている「実験」という語の字義に反している。つまりこの文は、「実験」という語に事前に新しい(そして元の意味から掛け離れたような)定義を与えておくことをしないのなら、単にトンチンカンなことを言っているだけなのだ。


そういえば明日、梅田にジュンク堂の新店舗がオープンするらしい。
行かなくちゃ。


序でにSONAR 5のアップグレードの予約の受付が一寸前から始った・・・。
また金が・・・。
不具合修正パッチが出る頃まで、買うのは一寸待とう。


サウンドハウス→SONAR 5
ジュンク堂→ホームページ
アマゾン→KASABIAN
アマゾン→Kate Bush "Aerial"
アマゾン→Bjork "Medulla"
アマゾン→Boards of Canada "The Campfire Headphase"