2005/11/29

マタイの受難曲

頭の働く憂欝より頭の働かない憂欝の方が苦痛は少ないのかも知れない。
と思ったが、憂欝の苦痛さ加減は、多分端的に憂鬱さ加減によって決まってくるのだから、頭が働くとか働かないとかは憂欝の苦痛さ加減には余り関係のないことなのかも知れない。
然し、頭の働く働かないは、憂欝の質には関係してくる。
ということで、今は頭の働かない憂欝。
従って今自分が何を言っているのか、自分でも余り明確に解っていない。
例えば「端的に」という言葉遣いがこれでよかったのかについて能く考えられない。
考えることが出来ない。タイプもよく打ち間違える。

陽のあるうちは、バッハのマタイでも聴きながら、日光が差し込んで、幸福だったのだが。
それから、メモによると、「世界は、概念的構造を持つような種類の「事実」の総体である」ということとクオリアとの関係について考えて、結局「矢っ張りここでもクオリアは要らない」という結論に至ったようで。
それからどうしたのか。
思い出せない。

寝よう。
ウィトゲンシュタインの日記でも読みながら。
就寝は、寝てしまうことにさえ成功すれば、今日という日を強制終了させられる、非常に素的なコトである。