2008/06/06

下地

当たり前のことを忘れないでおくことは必要だ。
例えば、色々なバリエーションのある民主主義の中でもコアとなる部分、或は当然受け入れられなければならないような部分を。
単なる個人の自由(これはしばしば「利益」と読み替えられる)の追求だけでなく平等や相互扶助或は弱者への配慮も、とか。
基本的人権の尊重然り。
エリートがその他の衆愚をコントロールすべきだ、とか、更に衆愚はコントロールしや易いように愚かな状態に留めておくべきだ、といった考えに反対すべきだ、ということだとか。
或は人を理不尽に或は不当に苦しめたり、或は将来を奪ったり殺したりすることが、(それが国家や漠然とした「社会全体」や大企業といった個人の能力を大幅に超えた存在によって為されるときには特に)何かしょうがないことなんだなんてことあり得ない、ということは、確っかりと肝に銘じておいて損は無いだろう。


もう一つ。
60年代や70年代の、新左翼や東大の安田講堂やベトナム反戦運動の時代の若者と現代の若者を比べて、ああ今の若者は、と端的に思ってしまって嘆息するのは適切でない。
なんかこうやって嘆息を吐いて見せるの、流行ってるのかね?
当時の若者にはそれ以前の人達の敷いた下地があったことを忘れてはならない。
現代の若者がどうしようもない腰抜けだと端的に思って絶望すべきでない(こんなことを言われると、80年代まで息が続かずに結局その後のらりくらりと過ごした君達中年や御老人はどうなんだと皮肉の一つでも言ってやりたくなるが、まあ言ったところで不毛なので兎も角として)。
可能性はある。
但し、もう一度下地作りからやり直さなければならないが。
今度はできればもう少しは洗練された仕方で。


芸術のお出ましだ。