昨日の夜から洟が酷い。
洟の所為で眠れないぐらい。
取り敢えず薬の量を増やしてなんとかする。
日中は薬の量が三倍になる。
或は風邪をひいたのかも知れぬ。
��ローティ風の)プラグマティズムが誤解されるのは、ひとつには、道徳的問題に対するプラグマティストの回答の仕方にあるかも知れない。
例えばシリアスな哲学的懐疑論に対してプラグマティストは、そんなもん意味無いですよ、と回答するが、反論者はそれに対して、否、懐疑論について考えることは意味があるんだ、と応えるだろう。
然しこのとき、プラグマティストとその反論者は実際のところは同じことを言っているのかも知れない。
プラグマティストは、懐疑論が何故無意味なのかということを説明する理論を既に持っているのだ。
然しその理論への言及無しに、単に「懐疑論なんて意味無いですよ」と言われると、反論者にしてみれば、「否、懐疑論について考えることは哲学の第一歩として有効だということを君は認めないのか?君は実際に懐疑論について考えることで何かを学んできたのではないのか?」と返したくなる訳だ。
然しこの二人は、自分は懐疑論を実際には採らない(或は実際にシリアスな哲学的懐疑論を採り得る人間は存在しないということを認める)という点においては一致しているだろう。
同じことが「何故人を殺してはいけないのか」という質問に対する回答にも当て嵌まる。
プラグマティストはこの質問に対して「君は殺さないだろう?」とか、「その質問に因って君は実際には何を問おうとしているのか、君は今一度考えてみる必要があるんじゃないの?」と問い返すことで応える。
このときプラグマティストは頭の中で「デフォルト/チャレンジモデル」とか「想像力」とか「魂への態度」とか色々な理論を使っているのだけれど、そのことを表に出さないと、反論者にしてみれば、単にはぐらかしているようにしか見えないのだ。
確かに「何故人を殺してはいけないのか」という問題は何か重要であるかのような雰囲気を醸し出しているので、この問題にクソ真面目に真正面から応える必要は無いですよと言うプラグマティストは、反論者にしてみれば、不真面目な奴だと思われるかも知れない。
然し見落とさないで欲しいだが、プラグマティストは「何故この問題に対してクソ真面目に真正面から応える必要が無いのか」を説明する理論を既に持っているのだ。
つまりプラグマティストには「何故クソ真面目に応える必要が無いのか」という題で一本論文が書ける、というぐらい、説明の用意があるという訳だ。
ということを何故か思った。
昨日眠れなかったので、すげー眠い。