2007/02/05

日本橋

私の感覚では、HDDの直段が下がるスピードがこの一年ぐらいで鈍ってるような気がしてたのだが。そうでもないのかなあ。
こまめに価格の変動をチェックしてる訳ではないので、勘違いなのかも知れないが。
去年一昨年ぐらいの私の感覚で「買い」なHDDの容量は250GBだった。
因みに「買い」の感覚は、大体一万円ぐらいで、容量一単位に対する価格が一番お手頃な感じに由来するのだろう。
今は320GB。
大分前に250GのHDDを買ったときには、「おお、HDDは今やこんなに安くなっているのか」と感動したのだが、最近は320GBのHDDが一万円ぐらいになってるのを見ても「まあこんなもんかねえ」ぐらいにしか感じなくなった。

と、日本橋の電気街を久しぶりに覗いた感想。


日本橋はなんかもう萌えの街に成りつつあるなあ。
まあ私は萌え自体は大して嫌いでもないのだけれど。
無意味な作品は無意味であるが故に、或はそれが無意味であるということに(それが無意味なのとは違った次元で)意味がある。
つまり何も考えなくていいということに意味がある。
我々は萌えの作品に触れているときには、神経に障るぐらいくだらない国会と吐き気のするくだらないニュース番組やワイドショーと田原総一郎みたいなどうしようもないくだらない偽物の「ジャーナリスト」とが絡まった一大茶番劇も日々の雑事も一時的に忘れることができる。
「高ストレス社会」ってのに住んでるらしい我々には、もってこいじゃあないか。
我々はアロマキャンドルを消費するように萌えを消費する。
消耗品として作られたものを手塚治虫の漫画と同じ次元で比較することは適切ではない。
ツェッペリンとつんくを比べるようなものだ。
ツェッペリンは新しい音楽を提示し更にショービジネス的にも成功したが、つんくのは音楽ではないがショービジネス的に成功した。
この二つをショービジネスとしてではなく音楽として比較することは馬鹿げている。
日本には萌えのような無意味なものもあるのと同時にちゃんと考えられてよくできた有意味な漫画は今でもある。
萌え商品だけを見てテヅカは死んだと断じるのは不当で了見の狭い分析である。テヅカイズノットデッド。
「ポストモダン」は局所的文化分析としては或程度の成功を収めたが、マクロ的文化分析としては不適切である。

で。
萌えが真面目腐った深刻ぶった格好をしたものは反吐が出る。
何も考えていないのに何かを考えているふりをするのは欺瞞である。
只お馬鹿で何も考えなくていいようなものであるか或はよく考えられて作品としてよくできたものであるかのどちらでもない格好だけの欺瞞の萌えは只の糞だが、然しそうでない、件のどちらかのものは、二つめの次元の意味で有意味であるか一つめの「手塚的」次元の意味で有意味であるか、どちらかの意味で有意味だ。
従ってそういった有意味ものが広まることにはそれ程異存は無い。
それがほんとうに有意味なものである限りにおいては。
実際には萌えの中で上の二つのどちらかの意味で有意味なものは少なく、多くがほんとうにくだらないものである可能性はある。

人は街の毛色の変化を目の当たりにしたときには保守的になりがちなので、日本橋の萌え化を嘆く気持ちも分からなくもない。
昔電子部品と無線だった街が後にPCと家電の街に変わっていったときように。
まあ変化の遅い速いはあるが。

電気屋が潰れるのを見るのは少々心が痛む。
地価が上がってるのか知ら。或は客足が遠退いているのか知ら。
まあPCショップや電子部品の店が全部無くなることはないだろう。
一つの問題はバランスの問題だ。
萌えが、今の勢いで電気屋と入れ替わっていく程魅力的なものかどうか。
私には今の萌えがそれ程継続的に魅力的なものでありつづけるようには思えない。
今は恐らくバブリーだがそのうち落ち着くだろう。
然し今でも店が入れ替わり、また落ち着くときにも幾らかの店が潰れてしまう。

変化はいいけどバブルはよくないね、という話でした。