私的録音補償金って、結局のところ、具体的にどういった事柄についての「補償」なんだろうか。
或楽曲について、その楽曲の入ったCDを買ってきてCDプレイヤーで音楽を聴いて、それ以外にiPodでもその楽曲を聴くとき、例えば、「本当ならCDとは別にiPod用に楽曲データを(何故か)買わなければならない」とか「本来iPodに楽曲データを転送することに課金する権利を(何故か)著作権管理団体が保持している」ということを主張するのでないなら、一体、具体的に何が損なわれているのだろう。
そこで奇跡論理学。
発明しました。
普通の論理学、例えば古典的論理学の三段論法だと
大前提:全ての人間は死すべきものだ
小前提:ソクラテスは人間である
結論:従ってソクラテスは死すべきものだ
というふうな感じだが、
奇跡論理学では例えば
大前提:全ての人間は死すべきものだ
小前提:ソクラテスは人間である
奇跡:ここで奇跡が起こる
結論:従ってソクラテスは不死である
というような構造をしている。
この奇跡論理学を以てすれば、例えば私的録音補償金制度にだって何らかの正当性を見出すことができるだろう。
つまり「特に具体的に何が損なわれている訳でもないけれど、(奇跡が起こったので)私的録音に関して補償が為されるべきだ」という主張が極めて論理的な主張として認められる。
と、それとは関係無い話。
「全ての人間は死すべきものだ」と言うとき、「全ての人間」が具体的には何を意味しているか、或は何を意味していると捉えることが正しいのかということは、述部に何が来るか、例えば「死すべきものだ」が来るのか或は「いつかは滅びるものだ」が来るのか、にも幾らか依存している。
普通、「全ての人間は死すべきものだ」と言うとき、「全ての人間」というのは、私だとかソクラテスだとか、一人一人の個人を個物(?)として捉えるものだ。
つまり人間なら誰でも死から逃れることはできない、といった話だ。
自然とそう解釈するものだと思う。
普通、この場合の「全ての人間」を「人類全体」とか「人間というカテゴリーそのもの」のようなものとして、つまり「(一人一人の)人間」でなく「全ての人間」を個物(?)として解釈しはしない。
「死すべきものだ」が述部に来ると、「全ての人類」を「人類全体」として解釈することは困難を伴う。
然しこれが「全ての人間はいつか滅びるものだ」となると、「全ての人間」は「人類全体」のようなものとして捉えた方が楽かも知れない。
つまり、人類はあと100万年もすればスッカリ死滅している、とかいう話だと想像することができる。
或はこの場合でも「全ての人間」を「一人一人の個人、全て」と捉えることも、まあ可能だろう。
つまり「死ぬ」を「滅びる」と言い換えたものだとして考えて、人は誰でもいつかは死ぬもんだ、ということを意味しているんだと捉える訳だ。
ということで、例えば
・全ての人間はいつか滅びるものだ
・ソクラテスは人間である
・従って、ソクラテスは滅びるものだ
としたとき、場合によっては上の二つの前提が結論を導き出す助けになっていないようなこともあり得る訳だ。
で、だから何?という話。