2005/10/27

Kritik der Menschenkraft

風邪を圧して書きたいことがある。

人間力を高める?
ソースはここここ
糞みたいな響きを持つ言葉だ。口から糞を吐くようなものだ。
能く酒も呑まずこんな言葉で口を汚せるものだと感心している。
而もこの語がどんな意味内容を持っているのかが全く以って明確でないし、メタファーとして良く出来ている訳でも、詩的美しさがある訳でもない、実にカスみたいな言葉だ。

ニートとは社会から疏外して扱われてもしょうがない存在である、或はニートとは人として不十分な存在である、というような物語を社会に更に広める目的に対しては素晴らしく効果のある言葉だろうけれど。

私の拙い社会分析では、「人間力」なる訳の分からん力が足りないから人がニートになる、或はニートの人を就業或は就学させる為には「人間力」なる訳の分からん力が必要である、というのは余りに短絡的な思考であり、或程度正しかったとしてもことのごく小さな一面を誇大して考えているだけであるように思える。
重要な点として、社会に対して希望がない点、例えば、権威主義的イデオロギーが若い世代にとって馬鹿げたものであるとして広く理解されている反面、実際の社会では未だにそのような権威主義が猛威を振っており、若い世代の人間がそのような「馬鹿げたことが罷り通っている社会」に対して希望を持つことを諦めている、というような物語を若者世代が自分達について広く物語っている点、自らが自動機械や単なる歯車でないと知っていながら就業すればその歯車になるほか無いという物語が社会についての物語としていよいよ重要な部分を占め始めた点、或は青春時代の殆どを「先の見えない不況、自己責任」ということに関する物語が語られた時代に生きており、社会に対して希望を持つということがどういうことか理解出来ない、という点、があり、また自分が自分の社会の一員であるという物語が力を失い、社会と自分を切り離して考える物語が疏外の物語として重要な位置を占めるようになってきた点、それらの点が、ニートの問題を考えるときに重要な点となるのではなかろうかと思う。また、社会の側がニートを社会から疏外するような物語をいよいよ露骨に敵意を持って物語るようになってきたという点も重要であると思う。「ニートは人間力が足りない」とか。「ニートは親の財産を喰って生きる穀潰し、働かざる者喰うべからず」とか。その影響を受けてニートである人はますます生き難くなる物語を自分に対して物語ってしまい、ますます動きにくくなるという悪循環が始まっているんじゃなかろうか。
ニートであるまさにその人がニートになったのは、その人自身に負う分も幾らかはあるだろうが、そのことは兎も角として、ニートに関する問題がまさにそのような社会問題になったことには寧ろ社会の方に問題があるのであり、また個人の問題に分析してしまうだけでなく社会の問題として扱われるべきだと思う。
推敲が面倒臭いから文が矢鱈長くなってしまって文の構造が見えにくくなる愛嬌。
まあ簡単に言うと、単純に日本社会がニートに対して物語っている物語とニートである人が自分自身に対して物語っている物語の傾向性を分析してみるだけでも、「人間力」なんて差別的でないなら意味不明な語を持ち出してくるよりは一寸はマシなことが言えるんじゃないか思う。

「人を励ます」という動機は多くの場合「善いこと」に数えられるが、一方で実際に人を励ますときには一寸は考えてしないと不可ない、ということは常識的真理であったように思うのだが。私が間違っているのだろうか(反語)。

うん、腹と頭が痛くなって来た。