2005/10/21

ガムラン、インソムニア、音楽理論

今週も疲れた・・・筈なんだが、何故か眠くならない。
あー、また例のあの病かねぇ。
ビビりながら生きる。
違ったらいいのだけれど。


それから、ジャワのガムランのCDを買った。
「ガムランっぽい」ような音楽のCDなら沢山持っているのだが、ほんまもんのガムランはこれが初めて。
因みに生ガムランは昔バリに行ったときに聴いたことがある。
ケチャじゃなく。
それから日本でも、「遠戚の友人」ぐらいの微妙な間柄の人がやってるのを一度聴いたことがある。
そのときは私は今より更に若造だったので、音楽を楽しむというよりはポリリズムの分析に終始していた記憶がある。
今回はちゃんと楽しもうと思う。
まあ兎も角あの人達、多分、私が知っている音楽認識の仕方とは違う音楽認識の仕方を知っていらっしゃるようだ。
単なる無秩序な音の羅列が音楽ではないのは、音楽が音楽である為には、多かれ少なかれ、或は意識的なものであれ無意識的なものであれ、その音の塊の構造に何らかの規則性、或はもっと言うと、社会で或程度通用している規則としての「規範」性、がないと不可ないからである。
ならそのガムランの世界で成り立っているような規範を、ラーニングしない手はない。

音楽の規範性ということについて序でに言っておくと、芸術家は新しい規則を発明することが可能ではあるが、その規則がその「音楽」やその芸術家にとって完全に私秘的なものであるときには、その規則は規範とはならないので、その括弧付きの「音楽」は今や音楽であるとは言えない。
歴史や社会を完全に超越したという意味で「完全に新しいもの」或は「完全にオリジナルなもの」こそ芸術家の目指すべきものだという幻想は、捨て去るべきである。
そんなものは仮に存在するということが可能であると言えたにせよ、どのみち無意味なものである。
それに換わるものとして、「十分に新しいもの」或は「十分にオリジナルなもの」というような言葉を使用するように私は勧める。
まあ心配しなくても、人間に「完全に新しいもの」なんて、原理的に創造できやしないんだ。
何故ならその「新しいもの」の新しさが完全性を持ったその時点で、その「新しいもの」は何の意味も持たないものになるからであり、或はその「新しいもの」が何を意味しているのかとかどう新しいのかということについて原理的に理解不能になるからであり、或は言い換えると「新しいもの」という言葉が戯言や叫び声としては機能するかも知れないが意味を持つ言葉としては機能しなくなるからである。

まあそれでも尚、新しい規則の発明は芸術家の重要な仕事の一つであるという私の信念に変わりない。単にその規則が「完全に新しい」規則であるということが全く意味を為さない、というだけのことで。

従って学ぶことを恐れるな。