2005/10/14

記述間の翻訳不確定性

さて、このブログの記録メモという側面の最たるものを。
人間の或振る舞いが道徳的である為には、ということに関して、思ったことなど。
忘れないうちに。迷走気味に、飛ばし飛ばし、私的言語で書くと。

私は物凄くプラグマチストなもんで。プラグマチズムの語彙で物事を記述するのが好きなのです。で、何でも先ずプラグマチックなもののとらえ方から出発してしまうという癖がある。
因みに「プラグマチズム」ってのは何かってことは今日は説明しません。チョー面倒臭い。私はナチュラルボーンプラグマチストなので、そりゃ魚になんで泳げるのか訊いてるようなもんだ。私のプラグマチズムはローティに影響を受けていて、それでローティのにかなり近いものなので、まあローティ読んで下さい。『偶然性・アイロニー・連帯』がお勧め。まあ簡単にだけ説明しとくと、プラグマチストというのは、ウィトゲンシュタインの「ザラザラした大地に戻れ」という言葉が好きな人達のことで・・・?
ハイ、テキトーに言いました。面倒臭いんだって。色んな側面があって。

まあ兎も角、私にとってプラグマチズムとは、それによって議論のスタート地点に立つ為のものであって、プラグマチズムそれ自身のみによって議論に何らかの解決を与えることが出来る、というようなものではない。ということで、取り敢ずスタート地点まで行ってみよう。

好い/悪いを判断する道徳判断についての議論で、例えば、行為性或は動機を重視するのか結果を重視するのかというような議論について。
結果重視ってのは、動機の良し悪しや有無は兎も角、いい結果をさえ引き起こせば、それは道徳的に正しいことをしたんだと言える、というような立場。それに対して行為性重視ってのは、道徳的に正しいことをしたんだ、と言える為には行為性が必要で、行為性無しには道徳的正しさは成り立たないんだ、というような、カントっぽい感じの議論。
因みに「行為」ってのは「或行動について、そうしようと意識してそうすること」みたいな感じ。そうしようという明確に意識された動機がある。だから、反射や無意識的な行動は勿論のこと、或ことをしようと意識したんだけど違うように行動してしまったってのも、ここでは行為ではない。
因みに、行為に関するこの種の定義は込み入った議論をするときには一寸素朴すぎるように思えるが。例えば「ランプが点くのが見えたらできるだけ早くボタンを押してください」と言われた被験者の意識や行動や反応時間について込み入った議論をするときとか。然しまあこれで十分、という場合も多い。

で、プラグマチックな観点から見てみましょう、と。
その判断の対象となっている個々の(一般的な、ではなく)事柄について記述しようというとき、実際は、「行為性」や「結果」に関わる語彙で記述されるよりもっと沢山の種類の語彙によって記述される記述の仕方が可能なんではないかと。で、それらの別の記述の仕方で記述された個々の記述の関係について言っておくと、それらの間には翻訳不確定性テーゼが働く限りで翻訳可能である(何故なら同じような事柄について記述されているのだろうから)、ぐらいの関係なので、それらの記述のうちどの記述が重要なのかについて議論することが可能であり議論することが可能であるということは、合意されていない状態から、議論の参加者の共通認識まで掘り下げるなどして、合意にまで達する可能性があるということである。
なので、ここで、どの記述が重要なのかについての議論が起こる。
プラグマチズムが主に面倒を見るのは一応はここまでであり、またここでやっと議論を始めることができる。そういう意味で、プラグマティズムは、それによって議論のスタート地点に立つ為の物なのである。

で、議論が旨く行けば、議論の参加者の間で合意が得られる。(因みに言っておくと、勿論、誰が議論に参加すべきか、誰の間での合意が必要か、というようなことも、議論の余地があることである。)
またその後、他で議論してた人達の合意内容とこの合意内容が衝突する場合には、またそこで新しい議論を始めることができる。我々は新しい記述の仕方を幾らでも発明することができるのだから、何か語って語り尽くされるなんてことは無い。
というように議論が続いていく。


・・・読み返してみると、あんまり大したこと言ってねーな。
あ、でもこの違う語彙で記述された記述の間に翻訳不確定性テーゼが機能するとか言っていいのかというのはもう一寸考えないと。
でもメタファーとしては・・・まあまあ面白いんじゃねーかね自画自賛。
因みに自画自賛ってのは悪い意味で使われると思うんだが。然し私は言っておく。芸術家に対して。
自賛できない絵なんか描くんじゃねー!


で、重要な点の一つは、プラグマ「ティ」ズムなのかプラグマ「チ」ズムなのか、どっち、という話。