2004/10/17

本日、パンキッシュ也

寝てましたー
ちゃんと朝に起きたんやで?
でも、眠くなった。
だから寝たら、そのままずっと寝てしまった。
昨夜寝れなかったのだ。
ということで今日は何にもやってません。

昨日は夜中にベッドの中で興奮気味だったのです。
始めは芸術における自由について考えていて。
それから、J.B.の自由さについて。(因みに言っておくと、J.B.とはジェームスブラウンでもジェフベックでもジェーンバーキンでもなく、私の愛するジェフバックリーのことです。まあ他のJ.B.もみんな好きなんだけど)
それに対して自由な音楽家の私の身の回りにおける希少性について。
それが変に発展して、中学高校くらいの学生の、一部の教職員どもや時代錯誤を通り越した意味不明な規則からの自由について、になってしまって。
あの自由のレイピストの糞野郎どもの糞旺盛な糞支配欲について。
私の経験したところでは、あんなところに通ってあんな糞みたいな奴等を「先生」と呼ばされているような学生が自由についての一寸はまともな概念を形成できる希望は非常に薄いように思われる。
ニーチェが「聖職者」に吐き気を催したように、私もあいつらのことが思い起こされるだけで吐き気を催さずには居られない。
私はあいつらのことで今だに怒り狂うことが出来る。
法の拘束力さえ無ければ、今だに私はあいつらに対して倫理と道徳と社会の非難とあいつらが人間であることを無視するような行動をとることが出来るようにすら思える。
あいつらは、自分が一人の人間であることと生徒が一人の人間であることの両方をすっかり忘れてしまっているのだ。
あいつらに関わらされた生徒の中で誰があいつらに反発しない者があるだろう、誰が自由について教科書と憲法に書いてあることを歪めて考えることなしに受け入れることが出来るだろう。
私が育ったようなところで育った人の中で誰が、「自分や他の人間には自由があるのだ」ということを実感できるだろう。
誰が、「普通でない」「型通りでない」ことを怖れないことが出来るか。
このことは、一般的なパンク??ロックバンドでさえ繰り返し言って来た。

「普通」でないことが足枷になるような社会に、我々は生きているのだ。
Sometimes I feel like the world isn't ready for me.(クーラシェイカー、『S.O.S.』)
そしてあいつらは私にとってそんな社会が形成される現場の象徴なのだ。