ちょっくら祭りに行ってきた。
友人の友人が店を出すってんで、そいつぁ参加しない手は無い、ということで、友人数名と共に、昼前にゆるりと出かける。
この祭りは、我々或記述の下に同定される人間にとって、メッカ巡礼のようなものらしいのだが、私はどうも実際にメッカに行く気になれず、が然し一生のうち一回は行っておいた方が良いのだろう、とは思っていたので、友人の友人が店を出す、という契機ができた今回はまさに好機であったのだ。
初祭り。
寧ろ初詣。
祭り会場に入るまでに只管並んで、すげー人の数だななどと思いながらしばらくすると入場でき・・・とた思ったらまた待たされたりもしながら入場し、その友人の友人のところへ行って、適当に挨拶して、じゃあこれください、だけど細かいのねえからと友人に100円借りながら(あ、返すの忘れた)品物を買った後、ぶらぶらと祭りを謳歌しに行く。
よく見ると祭り会場の中に居るのは殆ど、何十万人か居そうな人のほぼ100%女性であることに気付く。
多少キマリが悪くなりながらも、まあ我々の見るものも中にはあるだろうとぶらぶらし、ブチャラティの「この味は!ウソをついてる『味』だぜ」シールなどを、こりゃすげー(然し高けーな)と盛り上がりながら今日は祭りだと言って買ったりして、普通に結構楽しめた。
帰りに「物語的重力の中心としての自己」を応用した「依代論」について話しながらマクドを喰う。
依代論によると、墓は死んだ人の物語的重力の中心の依代(不完全ではあるが)として呪術的な機能を果たしたり、人間の生きた身体はその人の物語的重力の中心の最良の依代になる、ということが言える。
Eureka!
因みに昨日の夜、酒の席で私は或脚本家の友人に「物語的重力の中心としての自己」を倫理学に応用するのにどうしたらいいのかを上手く説明できず、モヤモヤしていたところ、今日の朝、夢現でこの「依代論」を思いついて目覚めた。
頭良いぃぃぃっ、私っ!
この依代論の一つの大きな利点(他にも利点は色々あるんだが)は、死んだ人や死体にまつわる倫理が扱えるというところであり、現在のところ判っている問題点は、「死んだ」という物語がその人の物語にくっついたときに、実際に何が起こるのか、そして何故生きた人間の身体が最良の依代になるのか、についての何らかの説得力のある説明が為されなければならないという点である。
ぶっちゃけ、これはウィトゲンシュタインの「魂への態度」の議論の一つのバリエーションである。
というようなことが、話し合いの結果、まとまる。
もう一寸更に色々面白いことがまとまったと思うけど。
R.A.T.学団の成果として学会に発表だ!